天穹のバロン

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2016/12/31

第3回

| by kida

バスケットの側面中央にある、小さな四角い窓のような部分に足をひっかけて、ヒョイッと跨(また)ぐ。飛び込むようにバスケットの中に入った。ガスボンベが四つ角に積め込まれていることもあって、見た目の大きさに反して中は意外と狭かった。

「よし、行くか。凌太、いつでもいいぞ」

「はい。それじゃ、行きますね」

 先輩たちがバスケットから手を離し、笠原さんがバーナーのレバーを思いっきり引いた。吹き上がったバーナーの熱は、球皮いっぱいに蓄えられ、熱気球は空へと飛び立った。

 ものの数秒で高度は上がり、地上にいる宮嶋君や先輩たちは、あっという間に小さくなって、すぐに見えなくなった。

観覧車や飛行機みたいに、壁に守られて内側から見る景色とは全く違う。風の流れや音、そこを駆け抜ける空気の匂い。何もかもが想像とは違っていた。

何より、一番の予想外は高さだった。一定の高さ以上は上昇できない係留飛行とは比べものにならない。あまりの高さに足が面白いくらいに笑って、力が抜けて、踏ん張っているのがやっとだった。

「内野、どうした。怖いか?」

 バスケットの縁に額(ひたい)を付けて突っ伏す私に気づき、先生は少し驚いた様子で声をかけた。

「ちょ、ちょっとだけ」

「最初はそんなもんだよ。時間が経てば慣れるさ」

 と、ケラケラ笑いながら私の肩を叩いた。

そんな私のことなどお構いなしに、先生と笠原さんは、風の向きや場所について話している。

大丈夫。もう少しで慣れるはずだから、大丈夫。

心の中で自らに言い聞かせ、長めの溜息(ためいき)をついた時だった。ふと、左頬が温かくなったことに気づいて顔を上げた。

 下ばかり見ていた私の視線が、その時初めて、そこに広がる景色を捉える。恐怖心がどこかへ消えていくのを確かに感じた。

「きれい……」

 白い残月が浮かぶ薄紫色(うすむらさきいろ)の空に、白銀の朝陽(あさひ)が広がっていく。

 息をのむ――私は初めて、その感覚をはっきりと感じた。

 地上へ降り注ぐ朝陽は、どこまでも続く真っ白な雪の大地と、ジオラマみたいに小さくなった私の町を照らしている。

 今、私は空にいる。その感覚さえ麻痺(まひ)してしまうほど、そこは私の想像を遥かに超えた世界だった。

空を行く鳶(とび)や鷹(たか)は、こんなにも高い世界から地上を見下ろしていたのか。そう思うと瞬(まばた)きさえも惜しくなる。それほどに、目の前に広がる景色は幻想的だった。

 言葉も、吐息も、瞬きさえも。全ての感情を掻()っ攫(さら)っていく。

 もっと言葉があるはずなのに。伝えたいことはたくさんあったはずなのに。この景色を見たとたんに、私の中の言葉はどこかへいってしまった。

 それに――何もかもが、どうでもよくなった。ずっと悩んでいたことが、途轍(とてつ)もなくちっぽけなことに思えた。どうして悩んでいたのか、その理由すらわからなくなるくらい。目の前に広がる景色が、全てを吹き飛ばしてしまった。

「先生、すごいですね! すごい……」

「内野、さっきからそればかりだな」

 先生がおかしそうに笑った。それでも私は、バスケットに掴(つか)まりながら、身を乗り出すように景色を眺めた。さっきまでの恐怖心はどこへ行ってしまったのか、自分でも不思議なくらいだった。

「だって、すごいじゃないですか」

「うん、確かにな」

 先生はその景色を見慣れているからなのか、少し素っ気ない返事をして、地上から追走している部員たちとレシーバーでやり取りをしている。

 一人で喜んでいるのが馬鹿みたいで、私は少しいじけながら、昇り始めた太陽に視線を向け、その眩(まぶ)しさに目を細めた。

「よし、そろそろ下りるか。凌太、頼む」

 今日のフライトを担当している2年の笠原さんに、先生が指示を出した。

「了解です。ポイント、どこにします?」

「練習も兼ねて、自分で考えな」

「えぇ……」

 あからさまに自信がなさそうな返事をして、笠原さんは小さく溜息をついた。文句を言いつつも、それでも笠原さんは淡々と作業を続ける。

「先生、その先の畑、試してみてもいいですか?」

「この真下じゃなくて?」

「ここは電線が多いので、引っかかったら嫌なんで」

「わかった、やってみな。凌太、この辺で高度落としておけよ」

「はい」

 笠原さんはバーナーフレームの傍にだらりと下がっていた紐を力一杯引いた。とたんに熱気球が降下。滑るように地上へ近づいていく。一体、今のはなんだったのか。私は球皮を見上げた。

「先生、今のは?」

「球皮内の熱を外に逃がして、高度を調節したんだ。球皮の天辺にリップラインっていう、排気するパラシュートがある。さっきの紐を引くと、排気できるようになっているんだ」

「先生、そろそろ着地させます」

 淡々とした笠原さんの声が会話に割り込む。

 球皮の内部を見上げている間に、熱気球は地面目前まで迫っていた。

「内野、少し揺れるから気をつけろよ。凌太、慎重にな」

「了解です」

 地面まで、あと数メートル。

 真っ白な雪が積もる広大な畑に、熱気球のシルエットがくっきりと映る。

笠原さんはバスケットから身を乗り出し、短く、数回バーナーのレバーを引いた。降下していた熱気球はふわりと一旦上昇。数十センチの空中を滑るように飛んで、トンッと、軽く触れるように地上に着地した。

 間もなくして、部のワゴン車で追走していた副顧問の先生と先輩たちもその場に到着。畑に着陸した熱気球のもとへ駆け寄ってくる。

「先生、どうでした?」

「んー、上出来。今までで一番良かったかもしれないな」 

探るように訊(たず)ねる笠原さんに、先生はニッと笑ってそう答えた。その時の、照れくさそうな笠原さんの笑顔が、私の中の“何か”を確実に動かした。それが感情なのか、感覚なのか、今はわからない。

 風の流れを読んで目的の場所へと向かう――それは、どんな気分なんだろう。そんな強烈な想いが、背筋を駆け上がっていったのは確かだった。

 

❉❉❉❉

 

「先生。パイロットの資格は、どうすれば取れるんですか?」

 その日の部活終わり。

先輩たちが校舎裏にある倉庫へ、バスケットやインフレ―ターを片付けに向った隙(すき)を見て訊ねた。

「色々やることはあるけど、最終的には筆記試験と実技試験を受けることになる。免許、取りたいのか?」

 ワゴン車に積まれたガスボンベを降ろしながら、先生は聞き返した。私はそれを受け取りながら、真っ直ぐに先生を見て頷(うなず)いた。

「私、半年前まで東京に住んでいたんです。お父さんの仕事の都合で引っ越すことになって、どの高校を受験しようかって探していた時に、たまたま上高(かみこう)のホームページを見つけて、この部のことを知って。それで、ここを受験しようって決めたんです」

 話しながらガスボンベを持ち上げると、すぐさま先生が底の方を持って支えてくれる。2人がかりで抱え、そのまま倉庫へと向かった。

「パイロット免許取るために、ここを受験したのか?」

「いえ、その時はまだ――」

倉庫入口に差し掛かったところで、片付けを終えて出てきた先輩たちとすれ違った。何となく、この話を聞かれるのが嫌で、とっさに口を閉ざした。

足音と気配が遠ざかるのを横目で確認しながら、倉庫の奥へと進んだ。窓がないせいか中は暗く、外以上に冷えていた。

「最初は部活に興味があっただけだったんです。熱気球部ってどんなことをするんだろうって――でも今日、乗せてもらって変わりました」

 バスケットの傍にガスボンベをおろし、ふと顔を上げれば、周囲に置かれたバーナーフレームやインフレ―ターが自然と視界に映る。

 頭の中で何度も再生されるのは、バーナーの音と、笠原さんが熱気球を操縦する姿。

レバーを引くのも、風を読む感覚も、頭上で広がる熱も。その全てを、自らの身を持って体感したい。自分のものにしてみたい。その想いは、空で景色を見た時よりも強くなっている気がした。

「私も、操縦できるようになりたいです」

 そう言った私に、先生は腕を組み、小さく息を吐く。地面に向けていた視線が不意に私を捉え、真っ直ぐに見据(みす)えられて思わず身構えた。

「パイロットの試験は、受けたいからといって誰でも受けられるものじゃない。まずは【Pu/t】になることが必要なんだ」

「ピ、ピーユーティー、ですか?」

「スチューデントパイロットといって、簡単に言うとパイロットを目指す人たちのことだ。まずは気球連盟の会員になって【Pu/t】として登録していることが第一条件だ。その【Pu/t】に相応(ふさわ)しいかどうかは、これから内野を見ていくことになる」

 不意に、先生の視線が逸(そ)れた。その先には、入口付近に停めたワゴン車の傍で、部員たちと楽しそうに話している笠原さんの姿があった。

「笠原も、内野と同じようにパイロットの資格取得を目指している。入部から1年間、笠原がパイロットに向いているかどうか。部活でのことはもちろん、色んな姿を見て判断してきた」

「それで、笠原さんは?」

「今年の春から【Pu/t】として、本格的にトレーニングに入っているよ」

 つまり、先生に“相応しい”と認められることが第一関門。その期間は1年。その間に、私の行動全てが審査されるこということだ。

「もしその1年の間に、パイロットには向いていないと判断されたら……?」

「残念だけど、【Pu/t】として登録させるのは難しいかな」

 突きつけられた現実に、私は力なく息を吐くしかなかった。

パイロット免許に限らず、専門の資格を取るということは簡単な道のりではない。生半可な気持ちでは駄目。わかっていたつもりでも、改めて、言葉として受け取って実感した。

「楽しいことばかりじゃないし、むしろ大変なことの方が多い。それでもやってみるか?」

「……はい。よろしくお願いします!」

「そうか、わかった。これから一年間、頑張っていこうな」

 肩を叩き、先生は倉庫から出て行く。私は振り向くこともできず、遠ざかっていく足音に耳を傾けることしかできない。心なしか、握り締めた手が震えていた。
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