天穹のバロン

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2016/12/31

第10回

| by kida

❉❉❉❉  Ⅳ  ❉❉❉❉

 

 バスを降り、上士幌高校の校門前で足を止めた。見慣れた校舎を前に安堵(あんど)しながら、私は苦笑いと共に盛大な溜息をついた。

「なんだか、ようやく帰ってきたって感じがする……」

「内野、緊張してたからね」

 隣にいる宮嶋君は、会場にいた時の私でも思い出したのか、ククッと含み笑った。

 その日、私と宮嶋君は部活を休んで【Pu/t】の講習会に行っていた。これに参加するということは、念願の【Pu/t】になれたという証そのもの。気合を入れて会場へ向かったものの、着いたとたんに喜びは緊張に変わった。

必要最低限のことはノートに書き取ったけれど、しっかり聞き取れていたのかどうか、正直言って自信がない。

「ただの講習会なんだから、緊張する理由がないのに」

「それはそうだけど……高校生なんて私と宮嶋君だけだったじゃない。他はみんな、大人の人ばっかり」

 部活同様、講習会の参加者が男性ばかりだったせいか、その場の雰囲気にのまれて何が何やら。意味もなく緊張してしまった。

そんな私とは違い、宮嶋君は相変わらずあっけらかんとしていた。仕舞には「楽しかったね」なんて、はしゃいでいたくらいだ。

「宮嶋君は余裕そうだね。緊張したことないでしょ?」

「言われてみれば、そうかもしれない。まぁ、緊張し過ぎても良いことないからね。適度に力抜いた方が、良い結果出たりするし」

 この宮嶋という人物が未だによくわからない。突けば揺れるゼリーみたいな、常にのんびりフワフワした空気を纏(まと)っていて、発言もやる気があるのかないのか読み取れない。

 一見すると不器用にも思えるその言動も、おそらくは相手を欺(あざむ)いているだけ。勉強も運動も、そして部活も。何かを始めれば周りが気づかない内にサラッと、涼しい顔をして何でもやってのけてしまうのが、羨(うらや)ましくも腹立たしい。

「私、宮嶋君みたいに、どんなことがあっても緊張しない鉄のような心臓が欲しいわ」

「んー。正直言うと、俺もちょっとは緊張したんだよ?」

宮嶋君はヘラヘラ笑いながら、いつになく弱気な言葉を口にした。

「今までは何となく、資格取れたらいいなって、漠然としてたでしょ。でも、講習会に出て、本当に試験受けるんだなって。やっと実感した気がする」

「そうだよね。嫌でも意識させられたよね」

 今まではずっと遠くにあって、肉眼でさえ見えるか定かではない目標を、無我夢中で追いかけていただけ。それが今日一日ではっきりと見えた。何が何でも、そこへ辿り着かなければ。そんな義務感みたいなものが、体のどこかに入り込んだ気がする。

「なんか、急に不安になってきちゃった……ねぇ、宮嶋君。これから何か予定ある?」

「特にないけど。それがどうかした?」

「立ち上げの手順、ちょっとだけ練習してから帰らない?」

「そんなの、いつもやってるでしょ」

今更って顔をされて、少しだけムッとした。それを楽しむみたいにニヤついているから、同じようにニヤリと返した。

「そういう慣れがミスに繋(つな)がることもあるんだよ? 失敗は少ない方がいいでしょ? だからね、お願いっ」 

「んー……わかった。じゃあ、少しだけ」

 30分という約束で、私と宮嶋君は倉庫へ向かった。

中は相変わらず薄暗くて、冷蔵庫みたいに冷えている。外気温との温度差に身を震わせながら、倉庫の奥に置かれたバスケットに駆け寄った。

 私と宮嶋君が講習会に行っている間、今日はどこを飛んだのだろう。どこに降りたのだろう。微かに漂っている土の匂いに、ふと、そんなことを想像した。

「内野は、どうしてパイロットになりたいって思ったの?」

 バスケットの中に入ろうとしたところで、宮嶋君は唐突に訊ねた。私は半分ほど身を乗り出したまま振り返った。

「どうしたの、急に」

「いや、何となく。そういう話、聞いたことなかったなぁと思ってね。ほら、内野ってここの出身じゃないし。どうしてかなって」

「……うん。きっかけは、色々あったんだけどね」

 バスケットに足をかけ、ぴょんと飛び越えるように中に入った。降り立った時の足音が倉庫内に反響して、微かに空気が震えたのがわかった。

「お父さんがこの町の出身でね。小さい頃からよく遊びに来ていたから、熱気球も乗ったことがあって。引っ越すことが決まって高校を探していた時に、この部活を見つけたの」

「それが理由?」

「ううん、まだその時は考えてもいなかったよ。せっかく十勝に住むんだから、他ではできないことしたいなって。入部するまでは、その程度の興味だったの」

 それ以上のものなんてなかった――はずだった。

 全てを変えたのは、あのフリーフライト。銀色の朝陽も、真っ白な雪原も、痛いほどに澄んだ空気も。ほんの数分足らずの間に、一瞬にして脳裏に焼きついて離れなくなった。

「どうでもよくなっちゃったんだよね」

「どうでも?」

「初めてフリーフライトを体験した時ね。景色を見て、色々悩んでいたことがね、本当にどうでもよくなっちゃったの。あの時ね。パイロットの資格、絶対に取りたいって思った」

「同じだね」

 きょとんとする私に、宮嶋君は気恥ずかしそうに笑った。

「俺も、内野と同じ。俺も上で景色見て、どうでもよくなった」

 そう言って、バスケットの縁についていた土埃(つちぼこり)を静かに払い落とした。

宮嶋君が今、何を思い浮かべて、何を見ているのか。たったその一言でも、私には十分にわかった。きっと彼の脳裏では、バーナーの吹き上がる音が響いて、眼下に広がる雪原が浮かんでいるはず。もしかしたらデントコーン畑か、黄金色の小麦畑かもしれない。

「宮嶋君はいつ?」

「俺も中学3年の時。俺の父さん、パイロットの免許持ってるから、夏と冬はパイロット仲間と集まって飛ばしてるんだけどさ。俺が進路とか部活のことで色々悩んでた時に、父さんが乗ってみないかって。でも最初は拒否してた」

「どうして?」

「多分、悩み過ぎて疲れて、ストレス溜まってたのかな。パイロット仲間と楽しそうにしてる父さんを見るのが、面白くなくてさ。ずっと反抗して馬鹿にしてた。あんなの何が面白いんだって」

「それなのに、乗ったの?」

「うん、最終的には乗っちゃったね」

 自分のことなのに、まるで他人事みたいな口振りで言って腕を組んだ。

「そんなに馬鹿にするなら乗ってみろって言われて。じゃあ乗ってやるよって、勢いで何年か振りに乗ったんだ。そうしたら、見事にやられた」

「空から眺める景色、本当に綺麗だものね」

「うん。夏もいいけど、やっぱり冬が最高に綺麗だよね。一面真っ白でさ」

きっと、自分の目で見た者にしかわからないかもしれない。

 あの衝撃にも似た感動も、キンッと張り詰めて痛いくらいに澄んだ空気も。あの場所で、あの高さで見るからこそ意味がある。

地上からは決して見ることのできないあの光景は、きっと、迷って立ち止まった者を変えてくれる力があるのかもしれない。だから私も宮嶋君も、あの空の景色に惹()かれてしまったのだと思う。

「宮嶋君。パイロットの免許、絶対取ろうね」

「それは当然として、その前にやること山積みなんだけどね」

「そ、そうでした」

 飛ぶだけで済むならどんなに楽だろう。

操縦テクニックから物理化学、航空法や気象学など、筆記試験に向けての勉強に加え、単独飛行に実技試験。

上条先生曰(いわく)く、実技試験を担当する気球連盟のベテランパイロットは、鬼教官として恐れられている人物だという。本番はこれから。私と宮嶋君の前には課題が山積みだ。


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