第2回
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その週の土曜日。時刻は午前5時40分。
何度目かわからない欠伸(あくび)をし、閉じそうになる目を何とか見開きながら、つま先に引っかけるように靴を履いた。
「お婆ちゃん、いってきます」
「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」
祖母に見送られながら、玄関のドアを勢いよく押し開けた矢先のこと。吹き込んできた冷たい風に驚いて体は反射的に強張り、すぐさま立ち止まった。
「えっ、うそ。雪!?」
目の前に広がったのは、真っ白に染まった景色。地面はもちろん、庭先に植えられた桜の木の枝や、父の車の上にも、数センチほどの雪が積もっていた。
状況が理解できず呆気に取られている間にも、冷たい空気がそろりと忍び込んできた。ドアノブを掴んでいる手を撫で、足元をサッと通り過ぎていく。目に見えるはずのない風の動きが、はっきりとわかるくらいだった。
「もう4月も半分過ぎたのに、雪だなんて」
信じられない。そう言いかけた言葉は、寒さからどこかへ行ってしまった。
「お婆ちゃん、雪だよ、雪っ」
「夜中に降っていたみたいだね。まぁ、こっちでは珍しくもないさ。去年なんて、5月の初めにも雪が降ったくらいだからね」
「さすが北海道。気候が全然違うんだね」
この町で桜が見られるのは、早くても5月半ば。春に降る雪は珍しくもないと、父から話だけは聞いていたけれど、実際にこの目で確かめるまでは信じていなかった。
「ほら、部活の時間はじまっちゃうよ」
立ち止まっている私の背を、祖母がトンと軽く叩いた。踏み潰していた靴をちゃんと履き直して、仕切り直し。
「それじゃ、いってきます」
「気をつけてね」
祖母に見送られ、私は家をあとにした。
その日の空気は張り詰めたような冷たさだった。湿り気が無く乾いていることもあって、肌を撫でるピリピリとした感覚は、痛いとすら思うほどだ。
早朝のせいか、道路を走る車は一台もない。聞こえるのは、遥か上空を旋回する鳶(とんび)の鳴き声と、微かに吹く風の音。そして私の足音。ただひたすらに、そこにある音を聞きながら、真っ直ぐ伸びた一本道を歩いて行く。
家から高校まで歩いて10分。寒さに手を擦り合せ、息を吐きかけながら、ようやく校門へと到着した。そこから上条先生と数人の学生が校舎前に集まっているのを見て、ハッとした。集合時間を間違えたのかもしれない。私は慌てて駆け出した。
「お、おはようございます。すみません、遅れました」
「おはよう、内野。大丈夫、少し早いくらいだ。他の部員がいつも早いんだよ」
「そ、そうなんですか? よかった……」
ホッと胸を撫で下ろしながら、おずおずと見回した。
隣にいたのは同じクラスの宮嶋春斗。ワカメみたいな天然パーマの髪を掻(か)きながら、タレ気味な目を細めて、ひかえめな欠伸(あくび)を一つ。目が合うなり小さく会釈された。
「皆そろったことだし、始めようか」
先生のかけ声に、他の部員たちが返事をし、各々が頷いた。
部員は6名。3年生の部員はゼロで、現在は2年生だけ。新入部員は私と宮嶋君の2名のみで、おまけに女子部員は私1人だけだった。
その場で簡単な自己紹介をしたけれど、眠気と寒さ、緊張のせいか先輩たちの名前が頭に入ってこない。ただ、部長が「笠原凌太さん」だということは憶えた。なにせ、部員の中でも頭一つ分背が高く、黒縁眼鏡に、きりりとした太くて短い眉毛。その風貌と存在感は、黒光りした毛にスラリとした細身のドーベルマンみたいだった。
「とりあえず、内野と宮嶋は見学。立ち上げとか準備の流れ、一通り見てもらおうかな。凌太、指示出して準備な」
「了解です」
挨拶を終え、さっそく活動開始。先輩たちの後を追ってグラウンドへ移動した。
野球グラウンド横の芝生に一台のワゴン車が停車している。笠原さんは真っ先に後部席のドアを開けると、乗り込む様子もなく、ドアの前で何やら作業をしている。その手には色鮮やかなグリーンの風船が握られていた。
「先生、飛ばします」
「んっ。いいぞ」
それを合図に、笠原さんは風船を離した。
空へ吸い寄せられるように、真っ直ぐに飛んでいく風船を、先輩たちはじっと見上げている。
「先生、あれは何をしているんですか?」
私は少し声を潜(ひそ)めて訊ねた。
「風の流れを見ているんだ。どの方角へ吹いているのか、どのくらいの強さなのか。風が強過ぎる時に熱気球は上げられないからな」
「今日は飛ばせそうなんですか?」
「そうだな。風が穏やかだから、比較的流されずに真っ直ぐ上がってる。問題ないよ」
先生はそう話しながら、笠原さんにOKサインを出した。
そこからの作業はあっという間だった。プロパンガスが詰まった4本のボンベをバスケットに積んで、バーナーを取りつけて、20メートル近くある球皮を広げていく。
一つひとつの作業を見ても、細かな決まりがあって工程も分かれている。どう見積もっても時間のかかる作業のはずなのに、そう感じさせないのは、先輩たちの手際の良さとチームワークといったところだろうか。
それらの作業が終わり、いよいよ球皮を膨らませていく。熱気球の飛行には欠かせない、あの風船の部分だ。
先輩が2人、球皮の開口部を持って広げている。そこへ、ガソリンエンジンで稼働するインフレーターという送風機が登場。ブロロロッと唸るようにエンジンがかかり、送り出された強烈な風が中へ一気に吹き込んだ。球皮は大きく波打ちながら、みるみる膨らんでいった。
「内野、宮嶋。入ってみるか?」
『へ?』
突然のことに、私と宮嶋君は気の抜けた返事をした。
「どこに、ですか?」
「球皮の中だよ。入ったこと、ないだろう?」
「いいんですか?」
「今日だけな」
私と宮嶋君は、確かめるように互いの顔を見交わす。先生に促されるまま、球皮の中へと足を踏み入れた。
「なんか、感動……」
宮嶋君はきょろきょろと中を見回しながら呟いた。私もこくりと大きく頷いた。
立ち上がる前の球皮内は、インフレーターから送り込まれた風が轟々(ごうごう)と音を立てて渦巻いている。その薄い半円状の布の内側からは、徐々に明るくなり始めた空の色と、球皮を彩る赤や黄色の模様が重なり合って、うっすらと透けて光っていた。
「この感じって、あれに似てる」
と、宮嶋君がまた呟いた。
「あれって?」
「ほら、お祭り会場とかに特設されてる、ドームタイプの巨大エア遊具」
おそらく、キャラクターのお腹の中に入ってぴょんぴょん飛び跳ねる、あの遊具のことだろうか。確かに、充満しているビニールっぽい匂いや、見上げた時の光景は少し似ている気がする。
「内野、宮嶋! そろそろバーナー使うから、戻ってこーい」
そこへ声が届いた。入口からこっちに向かって、先生が手招きをしている。
横倒しになったバスケットとバーナーの間に笠原さんが入って、何やら準備を始めているのが見えた。
私と宮嶋君はすぐに外へ出た。それを確認し、先生は笠原さんの隣に立った。
「バーナー、入ります!」
笠原さんが声を上げ、バーナーのレバーを引いた。その瞬間――空気をビリビリと震わせながら、澄んだ赤い炎が球皮内に向けて放たれた。
吐息も白くなる寒さだったのに、バーナーの熱は球皮内だけではなく、その周囲の空気まで一瞬で温ためてしまう。離れた場所に立っていた私のところにまで、その熱が伝わってくるほどだった。
温められた空気は球皮の中で膨張し、横たわっていた球皮がふわりと立ち上がっていく。その様子は深海を漂う巨大なクラゲみたいで、優雅なのに力強ささえ感じる。驚きや感動、色々な感情が混ざり合って、私は完全に圧倒されていた。
「宮嶋君、熱気球って、こんなに大きかった?」
「俺も久々に近くで見たけど、迫力あるね」
「うん……」
返事をした私の顔は、きっと間抜けな顔になっていたかもしれない。口をぽかんと開けて、目を丸く見開いていたのだから。
そうして準備が終わり、後は空に飛び立つのみ。浮力でバスケットが浮かび上がるのを先輩たちが押さえつけ、その隙に、笠原さんと先生が素早く乗り込んだ。
「あと1人、誰か乗ってくれ」
「先生、せっかくだから、2人のどちらかでいいんじゃないですか?」
笠原さんが私と宮嶋君を指差した。急に指名されたものだから、私たちは互いを探るように顔を見合わせた。もちろん、先に乗りたいというのが本音。
今日のフライトは、ロープで地上に繋(つな)がれた係留飛行ではなく、どこまでも高く飛んで行ける、熱気球本来の飛行が可能なフリーフライト。私にとっては初めての紐無し飛行だ。
「内野、乗ったら?」
「いや、宮嶋君も乗りたいでしょ?」
お互い、口では遠慮しながらも顔には“乗りたい”と書いてある。しばらく譲(ゆず)り合いが続いていたけれど、いつまで経っても決着がつきそうにない。仕方なく、私は握った拳を突き出した。
「ここはやっぱり、ジャンケンでしょ?」
「賛成」
突き合わせた拳を小さく振って、ジャンケン、ポン。宮嶋君はグー、私はパー。軍配は私に上がった。