第1回
❉❉❉❉ Ⅰ ❉❉❉❉
廊下を行き交う生徒たちの声に、放課後のチャイムが重なり合う。
割れるように響くその音に顔を顰(しか)めながら、私は職員室の前で足を止めた。ドアに貼られたデスクの配置表を目と指で追い、先生の名前と位置を確認してからドアを押し開けた。
「し、失礼します」
勢いに任せて開けたものの、少し緊張しているせいか声が上ずった。それが恥ずかしくなって、俯(うつむ)き気味に足を進めた。
入り口から真正面に見える、日当りのいい窓際の席。色白で黒縁眼鏡をかけた、少しばかり童顔の先生が座っている。古典担当の上条先生だ。
何か難しいことでも考えているのだろうか。眉間(みけん)にシワを寄せてパソコンの画面を睨(にら)み、カタカタとキーを叩いている。
「あの……上条先生」
様子を窺いながら声をかけると、猫背気味になっていた背をピンと伸ばして、こちらへ顔を向けた。
「内野か。どうした?」
「これ、提出しに来ました。よろしくお願いします」
差し出したのは【入部届】。受け取った先生は、それを目にするなり「おっ」と、興味深げな声を上げた。
「うちの部活、かけもちが条件だけど大丈夫か? もう一つの部活は?」
「書道部にしようかと思っています」
「そうか。でも、いいのか? うちの部活、朝早いぞ?」
と、からかうようにニヤリとされた。だから苦笑いを返した。
正直言って、早起きはあまり得意ではない。朝ご飯を抜いてでも、ギリギリまで寝ていたいくらいだから。それでも、私がやりたいと思って選んだことだもの。どうにでもなる。いや、どうにかしてみせる。
「だ、大丈夫です」
「まぁ、最初はキツイだろうけど、すぐに慣れるよ。色々準備もあるだろうし、土曜から開始ってことで。朝6時に校舎前に集合」
「わかりました」
「それじゃ、これからよろしくな」
そう言って、先生は机の端に立てかけていたファイルに手を伸ばした。【上士幌高校熱気球部】と書かれたそのファイルに、私の入部届がしっかりとおさめられる。
パタンッと閉じられたその瞬間、私の抱いた夢が音をたてて動き出したように思えた。
❉❉❉❉
私の日常が慌(あわ)ただしく変化したのは、半年前のことだった――
「えっ、北海道!?」
私の声は思いのほか大きく、リビングに反響した。
食事の最中、何の前触れもなく父の口から告げられたのは、引っ越しが決まったという事実だった。テーブルを挟んだ向かいの席に座っている両親を、私と弟の歩(あゆむ)はただ呆然と見つめていた。
「それで……北海道のどこに転勤になったの?」
「いや、今度は転勤じゃないんだ」
言いよどんでから、父と母が顔を見合わせた。言いづらいことでもあるのか。その表情を見て、不安がジワリと体の中に広がっていく。
「もう何年も前から考えていたことなんだ。今の仕事を辞めて、爺ちゃんがやっている建設会社を手伝おうと思っているんだ」
「それ、もう決まったことなの?」
私の問いに、父はゆっくりと頷いた。その仕草が、私の不安を煽(あお)った。
「爺ちゃんにも、ずっと前から戻ってきてほしいって言われていてね。ちょうど、莉緒(りお)は高校受験だし、歩は中学にあがる。向こうへ行くのは、この時しかないだろうって思っていたんだ」
「住む場所はしばらくの間、お爺ちゃんの家にお世話になろうかって、話になっているの」
「えっ! お爺ちゃんと一緒に暮らせるの?」
母の話に、歩は声を弾ませて喜んだ。相変わらず呑気というか。私とは違って楽観的な性格だから、なおさらかもしれない。
「姉ちゃん、北海道だよ。北海道!」
「歩、嬉しそうだね」
「姉ちゃんは嬉しくないの?」
私は肯定も否定もできず、誤魔化すように味噌汁をすすった。
おそらく、旅行にでかけるような感覚なのだろう。いつものパターンだと「友達と離れたくない、新しい学校で友達ができるかどうかわからない」と、後になって駄々をこねるのは目に見えている。喜んでいられるのも今のうちだけだ。
「歩。今の状況、わかってるの?」
「わかってるよ。北海道に引っ越すんでしょ?」
「そう。でも、今までとは違うの。ずっと住むことになるのよ」
少し投げやりに言って、残りのご飯を口一杯に頬張った。
北海道にある上士幌町に住んでいる父方の祖父母の家には、毎年のように遊びに行っていた。どこに何があって、どんな景色が広がっているのか。今もそこに住んでいるみたいに、手に取るようにわかる。
多少の心配はあっても、祖父母のいる町だし、初めての地ではないだけマシかもしれない。ただ、遊びに行くのと引っ越すのとでは訳が違う。一時を過ごすのではなく、おそらくは永住。はいそうですか、と、素直に受け入れられるものではない。
「……私、志望校も決めてたし、友達と一緒に行こうって約束もしてたのに」
「そのことは、悪いと思ってる。莉緒、ごめんな」
父は頭を深く下げた。その姿を見ていられなくて、私はぎゅっと目を瞑(つぶ)った。
言いたいことはたくさんあった――どうして決める前に相談してくれなかったのか。どうして今なのか。全てをぶつけてしまいたい衝動にかられても、それはほんの一瞬。
ここで私が騒いだところで、この事実が変わるわけでも、引っ越しが白紙に戻るわけでもない。子供みたいなわがままをぶつけられる歳でもないし、何より両親を困らせたくはなかった。結局、言葉として吐き出す前に感情が鎮まっていった。
「うん……わかった。高校は、向こうで受けられそうなところ探してみるね」
「莉緒、ありがとな」
「決まっちゃったことだもん、仕方ないよ。間に合わなくなる前に準備しないとね」
私は早々に食事を済ませて部屋に戻った。
それからしばらく、何も考える気にならなかった。椅子に座るわけでもなく、ただドアに寄りかかったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
「北海道、か……」
転校も引っ越しも、これが初めてではない。
父の仕事の都合もあって2、3年の間隔で各地を転々としていた。中でも、東京での生活は5年目。仮に転勤になったとしても、高校受験を控えた私を連れて行くわけがない。そう高を括(くく)っていただけに、意外とショックは大きかった。
仲良くなった友達と離れることも、住み慣れた町を出ることも、最初の頃は嫌だったけれど、数を重ねる内に、気づけば慣れていた。「また移動するのね」と、割り切れるくらいには心が動かなくなっていた。そんな私が、小さい頃に捨てたはずの想いを久々に味わって、戸惑っている。
仕方ない――そうは言ったものの、完全に割り切れたわけではなかった。それでも今は行動するしかない。渋々机に向い、力なく椅子に座った。
パソコンを起動し、立ち上がるのを待ちながら、傍に置いてあった携帯を手に取った。開いたのは電話帳。並んだ友人たちの名前をつらつらと眺め、その途中で目に留まった“瑠璃”の名前に胸が痛む。
同じ高校へ行こうと約束をしていたのに、北海道へ引っ越すことになったと言ったら、瑠璃はどう思うだろう。裏切り者だと思うだろうか。嫌われはしないだろうか。そんなことばかりが頭の中を巡っていた。
「……何て言ったらいいのか、思いつかないよ」
直接会って話す前に連絡しておこう。電話がいいだろうか、メールがいいだろうか。色々考えてはみたものの、上手く説明できるだけの言葉が見つからず、結局、電源を切った。
何を言われてもいい。瑠璃には、後で何度でも謝ろう。今は、目の前にある現実を受け入れて、行動することが最優先だった。
「高校探すって言っても……私、何も知らないんだよね」
知っていても、せいぜい観光地くらいだ。住むという目的で調べたことはないから、知っているようで何も知らないのが現状だった。
とりあえず、私が住むことになる【上士幌町】で検索をかけてみた。トップに表示されたのは、旅行者向けのサイトや町が運営しているホームページ。ナイタイ高原牧場をはじめ、アーチ橋ツアーの案内や写真が大きく掲載されている。
観光協会のサイトから、個人のブログで紹介された旅行の記事まで、様々な情報が溢(あふ)れるその中で“上士幌高校熱気球部 バルーン・フェスティバルで総合優勝”の文字が目に留まった。
夏と冬の年2回、上士幌町で開催される熱気球の大会のことだ。全国各地から集まる熱気球のチームを押し退けて、高校生のチームが優勝したという記事だった。
上士幌高校――キーボードに置かれていた指は、無意識のうちにその文字を打っていた。
「へぇ、熱気球部なんてあるんだ。高校にこの部活があるのって、北海道ではこの高校だけなんだね」
熱気球部……どんなことをする部活なんだろう。最初はほんの少しの興味だった。身近ではないものへの好奇心、ただそれだけだった。
熱気球なんて、ただ飛ばしているだけだと思っていたけれど、得点を競うための競技種目が幾つもあって、それには高い操縦テクニックが必要になるらしい。
上士幌高校熱気球部にはパイロットを目指す学生もいて、卒業生の中には在学中に取得した学生もいたみたいだ。その生徒に密着取材をしたドキュメンタリーが放送されていたり、地方局のテレビ番組が、何度か部活の取材にも来ているようだった。
「熱気球部かぁ……ちょっと面白そう。せっかく北海道に引っ越すんだから、他ではできないことしたいよね」
再び高校のホームページへ戻り、部活紹介のページに掲載された写真をクリックした。
夏の青空に飛び立つ熱気球を背景に、広大な緑の平原に笑顔で立つ部員たちの写真を目にした瞬間。私は瞬きをするのも忘れて、画面を見つめていた。神経や意識、思考や行動、あらゆるものがそこに吸い寄せられて、根こそぎ奪い去られたような、そんな感覚に近い。
「そっか、あの時の――」
どこまでも高い青空
遥か地上に見える町
頭上で響くバーナーの音
断片的な記憶が一瞬で脳裏を駆け抜けた。
小学校にあがる少し前、父と一緒に熱気球に搭乗したことがあった。怖かったのか、楽しかったのか。あの時に味わった感情が何だったのか、小さかった私にはわからなかった。でも、やっとわかった気がする。
圧倒されたんだ――あの音と、風と、景色に。
私は画面に手を伸ばし、表示された熱気球部の写真に指先で触れた。その時、ゴオォッと吹き上がるバーナーの音が、耳の奥で聞こえた気がした。