第12回
「お疲れ様でした」
「ありがとな」
声をかけた私に、笠原さんは申し訳なさそうに笑って言った。礼を言われたはずなのに、その声がどこか寂しげだったせいか、謝られたように思えた。
「私、何もできませんでしたけど……?」
「そんなことないよ。後悔しないで、最後まで飛ばせてよかった」
笠原さんは手にしているマーカーに視線を落とした。
最初は強がりを言っているのだと思った。悔しさや苛立ちを誤魔化そうと、自らに言い聞かせる呪文みたいに――私の想像に反して、マーカーを見つめる笠原さんの目は、後悔よりも無事に終わったことに安堵(あんど)しているようだった。
「高度を下げてルートから逸れた時、諦(あきら)めてたんだ。たくさん練習して何度も飛ばしてると、直感でわかるっていうか。無理だなって思ったんだ」
「でもあの時、別の風を探すって言ってましたよね。あの時、諦(あきら)めてたんですか?」
「うん。結果は残せなかったけど。あれ見つけてくれたから、できるところまでやろうって思い直せた」
見上げた先には、風の流れを教えてくれたあの銀色の熱気球。広大な青空を独り占めするみたいに悠々と飛んでいる。
「内野、ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
その言葉がじわりと広がっていく。
少しだけ泣きたくなるような、でも安心したような。そんな不思議な感覚だった。
❉❉❉❉
その日の夕方。
大会を終えた私と宮嶋君は、2人だけの“お疲れ様会”兼“反省会”をすることにした。
場所は【神社公園】。上士幌町で最も見晴らしの良い高台に神社があり、その傍に設けられている。
あまりにも的確に場所を示すような名前だから、それが本当の名称なのかと訊ねると、宮嶋君には「わからない」と即答された。話によれば、神社の傍にある公園だからそう呼ばれていると言っていたけれど、どうにも怪しい。ただ、子供たちの間では、その名前で通っているのは確かだそうだ。
「お疲れ様」
「んー、お疲れ」
公園内で一番の高さを誇る滑り台に上ってジュースを開けた。私はミルクティー、宮嶋君はコーラ。カチッ、プシュッと音がして、ほんのり甘い匂いが鼻先を掠(かす)めた。
赤に近い夕日が日高山脈の向こう側に沈み始める様子を眺めながら、疲労が混じる溜息を同時についた。
「今日、惜しかったね」
「だね。あと少し早く気づいていれば、結果は違ってたかもしれないね」
思い出したのは、笠原さんの笑顔だった。
笠原さんは“ありがとう”と言ってくれた。ただ、あれが本心だったのか、私にはわからない。嘘をつく人ではないけれど、あの時だけ、余計な気を使わせないようにしてくれたとも考えられる。
「本当に、あれでよかったのかな……」
「俺も内野も大会は初参加だからね。何が良くて何が悪いのか。判断するには経験不足だよ。まぁ、来年頑張ればいいんじゃない?」
「その時は下じゃなくて、上がいいね」
「当然」
そう言った直後。宮島君の返事を掻き消すみたいに、突然、バーナーの音が頭上で弾けた。
ちょっと不気味で可愛い笑顔を浮かべたジャック・オ・ランタンの熱気球が、手が届きそうなくらいの低空飛行で通過していった。確か、今日の大会にも参加していたチームだ。
搭乗しているパイロットは、まるでサンタクロースみたいに立派な白い髭を生やしたお爺さん。私が手を振ると、お爺さんも手を振り返しながらバーナーを2回鳴らした。その音が空気を震わせ、鳩尾(みぞおち)に響く度に、頭の中で記憶が再生される。
【Pu/t】に選ばれなくて泣いて、自分の未熟さに気づいて後悔して、笠原さんにかけられた言葉に助けられて――そして今日、地上から見上げる立場に立って、ようやくわかった。
望んだのは空だった。圧倒される景色と息を呑む感覚を味わいたくて、その領域へ辿り着く手段が欲しくて仕方なかった。今の今まで、それしか見ていなかった。
「欲張り、だったんだよね」
「何のこと?」
「熱気球のこととか、パイロットのこと。私が、自分が――って。前にばかり出ようとしてたんだよね、私」
全ては“自分が頑張れば、ちゃんとしていれば”と思い込んで、それを疑うことすらしなかった。きっとパイロットへの想いが強過ぎたせいで、見ているつもりになっていただけ。大会に参加して、地上に立って、空を見上げて気づかされた。
「準備も立ち上げも、飛ばすのも、たった一人じゃ無理でしょ? 熱気球を飛ばすのはパイロットの力だけじゃなくて、色んな人の協力があって飛ばすものなんだよね。笠原さんに“ありがとう”って言われて、それを思い知らされた気がして、恥ずかしくなっちゃった」
“はた(傍)をらく(楽)にする”――笠原さんが教えてくれたあの言葉が、じわりと、心の中で溶けて問い質してくる。地上にいた私は、ちゃんと果たせていたのか、と。本当の意味を理解するには、まだまだ時間がかかりそう。
「あんまり欲張っちゃいけないね」
「いいと思うよ、欲張りで」
清々しいくらいに、宮島君はきっぱりと答えた。相変わらず他人事な台詞に吹き出してしまった。
「いいの?」
「多少の欲がないと上達なんてできないって、うちの婆ちゃんが言ってた。あっ、でも、欲が強過ぎても成功しないって言ってたかな」
「どっちなのよ、それ」
「だから、ほどほどがいいんだよ」
あぁ、そうか。今、わかった気がする。
口癖のように言っていたその言葉は、単なる癖であって深い意味なんてない、やる気がないだけだと思っていた。きっと、それこそが大きな間違い。
“頑張るけれど頑張り過ぎない”
周りが見えなくなって空回りしてしまわないよう、軌道修正をしつつ前に進むことができる。そんな力が込められているのだとしたら、案外、素敵な言葉なのかもしれない。
「じゃあ、来年もほどほどに頑張ろうか」
「うん。ほどほどにね」
「でも、来年の大会は私が搭乗するから。そこは譲れないわ」
「それって、ほどほどじゃないんだけど?」