天穹のバロン

最終回

❉❉❉❉  Ⅴ  ❉❉❉❉

 

 3年目の春。私が初めて部活に出た日と同じように、その日も春の雪が降った。

 風もなく穏やかで、空は雲一つない晴天。肌がヒリヒリと痛むくらい、空気だけが冷えている。そして決まって、そんな朝はとても静かだった。きっと、今日はいつもより高く飛べるだろう。

「宮嶋君。バーナーフレーム、つけるよ。頭、気をつけてね」

「んっ。内野、それ終ったらあっち、様子見てきて」

 ガスボンベを固定していた宮嶋君がバスケットから顔をひょいと覗かせ、グラウンドの方を指差した。球皮を広げ終えた2年生部員3人が、積もった雪で雪合戦の真っ最中だった。

「遊んでるし……」

「だから気合い入れてきて」

「それって部長の仕事じゃないの?」

「内野の方が怒ったら迫力あるし、効果もあるでしょ?」

「何よ、それ」

 その場は宮嶋君に任せ、準備そっちのけで遊んでいる彼らのもとへ向おうとすると――

「内野さーん!」

 見計らったようなタイミングで呼び止められた。

 新入部員の加納さんと藤井さんが、インフレーターの前であたふたしている。目が合うなり「助けて下さい!」と2人で必死に手招きをした。

「どうしたの?」

「これ、どうやって動かすのかわからないんです」

「スイッチも見当たらなくて……」

「あぁ、これはね。ここを思いっきり引っ張るの。その前に球皮とバーナーフレーム、ケーブルで繋(つな)げないとね」

 と、背後を指さす。ガスボンベの固定が終わり、宮嶋君と先生、1年生の部員たちがバスケットを倒し始める。2年生が遊んでいるせいで人手が足りないらしく、手間取っているようだった。

「インフレーターは私がやっておくから、2人は球皮の開口部を持ち上げる作業、頼んでもいい?」

「わかりましたっ」

「あっち、行ってきますね」

 そう言って、2人は駆けて行く。

 去年は部員が5人増えたものの、見事に男子ばかり。結局2年連続で紅一点だった。そして今年、新入部員がさらに6人増え、その内2人は念願の女子部員。加納さんと藤井さんが入ったことで、多少むさ苦しく感じていた部活にも華やかさが増した。

 愛嬌もあって器用な2人は、かけ持ちで入っている家庭部でケーキを作ったからと、私にまで届けてくれることがある。その気遣いがなんとも可愛らしい。

 パイロットを目指す前に、私もこんな愛らしさを身につけておくべきだったと、今更ながら反省していた、そこへ――

「おいっ、いつまで遊んでるつもりだ!」

 私が説教をする前に痺れを切らしたのは上条先生だった。

 基本的に優しい先生は、怒っても優しいのがやや難点。2年生たちも「わかってま~す」なんて軽い返事をしながら、雪合戦続行。

 先生が2年生を追いかけまわしている間に、私はインフレーターを起動した。球皮に風を送り込んで、あっという間に膨らませる。そして新入部員たちは恒例の球皮内見学。はしゃぐ声が球皮の中で反響していた。

「宮嶋、内野。今日はどっちが先に搭乗する?」

 ようやく戻ってきた先生は、少し息を切らしながら訊ねた。

 2回飛ばせそうな日は、搭乗の順番をジャンケンで決める。それが私と宮嶋君のルールになっていた。

 互いに拳を突き合わせ、無言でジャンケン。結果、私がチョキで宮嶋君がパー。

 いつもは宮嶋君が勝つのに、今日は珍しく私が勝った。もしかしたら、今日は雪が降るかもしれない。

「じゃあ、私が先でお願いします」

「わかった。宮嶋は下から指示、頼むな」

 レシーバーを託して、私、上条先生の順にバスケットに乗り込んだ。そして一緒に搭乗するのは加納さんと藤井さん。これは私の指名だった。

 誰にも言ったことはなかったけれど、女子部員が入ったら、私が操縦する熱気球に搭乗してもらうのが密かな願いだった。また一つ、私の願いが叶った。

「内野、準備いいか?」

「はい、いつでも大丈夫です」

「よし。それじゃ、行こうか」

 先生の合図で、バスケットを押さえていた部員たちが一斉に手を離した。熱気球は瞬く間に地上を離れ、吹き上がる炎と風に運ばれ、空へと上っていく。

「うわぁ……足、すくむ高さだね」

「でもすごいよ! あぁ、写真撮りたい!」

 地上を見下ろしながら、怖がったりはしゃいだりする2人の姿は、2年前の自分と重なった。それが懐かしかったり、少しだけ面映かったり。その気恥ずかしさが手にも伝わったらしく、レバーを引くタイミングを誤ってしまった。

「あっ。先生、今のはマズかったでしょうか?」

 その一言で十分に伝わったらしく、先生はバスケットから身を乗り出して地上を見下ろした。

「んー、大丈夫だと思うけど、次は気をつけないとな」

「何かあったんですか?」

 会話を聞いていた2人が、不安そうに訊ねた。こんな足もつかない空の上で、含みのある会話をされたら、誰だって不安にもなる。

「低空飛行している時はね、バーナーの音に気をつけないといけないの。早朝ってこともあるんだけど、特に動物がいる時はね」

 話しているその最中、通りかかったのは酪農家さんの敷地内。ちょうど真下には牛舎があって、柵の中を歩いている数十頭の牛たちが、モーと鳴きながらこちらを見上げていた。

「音にびっくりしちゃうから、注意しないといけないんだよ」

 そう話していた、まさにその時。薄暗かった辺りに光が広がり、銀色の朝陽が昇った。その光景に、2人は瞬きするのも忘れて見つめていた。

 私が初めてここに立って、目にしたあの景色と何も変わらない。

 薄紫色(うすむらさきいろ)の空も、どこまでも広がる白銀の大地も、空に浮かぶ白い残月も。あの時と同じ。何度見ても圧倒され、言葉も感情も掻(か)っ攫(さら)っていく。

「先生、ポイントどこにしましょうか?」

「練習も兼ねて、自分で考えな」

 3年前、笠原さんと先生が交わしていた会話を、今度は私が交わしている。やっとここまで辿り着いたと思う一方で、まだまだ気が抜けないと身が引き締まった。

 先月、筆記試験も無事合格して、実技試験を残すのみ。それを笠原さんに報告すると「あとは鬼教官が待ってる」なんて意地の悪いことを言われたせいで、久々に緊張していた。

 こうなったら、笠原さんよりもいい点を取って試験に合格してみせる。そう思うと、俄然やる気が出てきた。

「内野、落ちてきたぞ。この辺りは電線が多いから、一度上げておけ」

「はい。とりあえずこのまま真っ直ぐ進んで、あの辺りの畑に――」

『内野、どんな状況?』 

 ザザッとレシーバーに雑音が入り、宮嶋君の声が会話に割り込んだ。

 地上を見下ろすと、先回りしていた熱気球部のワゴン車が、細い農道の入口に停車している。助手席からは、こちらを見上げて手を振っている宮嶋君の姿が確認できた。

「今のところは順調だよ。このまま真っ直ぐ進んだ先にある畑、見える? あの古いサイロがあるところ。とりあえず、そのポイントで着陸する予定だよ」

『了解』

 通信を切り、私はレバーを握る手に力を込めた。

「先生、いいですか?」

「やってみな。実技試験での着陸は、合否を左右する重要なポイントになる。気、緩めないように」

「了解です」

 朝陽に目を細めながら、私はレバーを引いた。

 バーナーの音に応えるように、空を飛んでいた鳶が鳴いていた。