天穹のバロン
第8回
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雪が降るかもしれない。
キッチンで昼食の準備をしていた母に「家事を手伝いたい」と話したとたん、そう言って笑い飛ばされてしまった。
「どういう風の吹き回しなの?」
じゃがいもの皮をむいている私に母が訊ねた。横目でちらりと様子を伺えば、興味深げに私を見つめる母の顔があった。
「えっと、ほら。私も高校生だし。何もしないのも、ね」
「あら、やっと気づいたのね」
「うん、まぁ、そんなところかな」
笠原さんに手伝えと言われたからだなんて、口が裂けても言えない。とりあえず、もっともらしいことを言って誤魔化した。
「なんだか、ずいぶん歪(いびつ)ね」
「皮、むいてるだけなんだけどね……」
たかが皮むき、されど皮むき。いくら皮むき器を使っていようとも、普段からやっていない人間が皮をむくとデコボコになるものらしい。
“女の子なんだから、今のうちにやっておかないと後で大変”
小さい頃から耳にタコができるほど母に言われてきた言葉だった。勉強が、習い事が、と言い訳して回避してきたツケが回ってきたのかもしれない。こんなことなら、ちゃんと手伝っておけばよかった。
「これ、大丈夫?」
「煮込んでしまえばわからないでしょ」
と、母はクスクス含み笑った。
今日の昼食は、祖父のリクエストでハヤシライス。CMで流れていたのを見て食べたくなったらしい。
カレーやシチュー同様、野菜は煮込んでしまうし、ルウでコーティングされてしまう。多少デコボコでもわかりはしない――と、気休め程度に開き直っておこう。
他の野菜も皮をむき終え、食感が残るよう少し大きめに切り分けていく。すると、まな板の上には野菜の山ができあがる。作業がしづらくなるから、別の場所へ移さなければ。鍋か、それともボウルにしようか。
「何か、入れ物――」
食器棚の方へ振り返ったとたん、目の前にステンレスのボウルが差し出された。それを手にした母がニッコリと笑った。
「はい、これ使いなさい」
「あ、ありがとう」
受け取って、再び調理台に向かった。
野菜をまな板からボウルへ移し、次は肉の番。確か冷蔵庫に入れたままだったはず。そう思っていた矢先。まな板の前にポンと、肉の入ったパックが置かれ、ガス台の上に鍋が用意される。また母だ。
ありがとう――その言葉を受け取る前に、母はさっさと次の作業を進めてしまう。サラダを用意したり、スープの準備をしたり。私が準備をしている間、母も同時進行で別の準備をしていたはずなのに。もしかして、私の行動を見ながら作業をしていたのだろうか。
その時、ゾクゾクと、何かが背筋を駆け上がる感覚を覚えた。
わかりそうで、わからないような。喉の辺りか、あるいは鳩尾(みぞおち)の辺りまで来ているのに、それがなかなか上がってこなくて、もどかしい感覚。何だろう、今わかりそうだった。
シンクでレタスを洗っている母の姿をまじまじと見つめた。急にハッと顔を上げ、辺りを見回すような仕草をした。
「お母さん、これ」
とっさに、私が取って差し出したのは笊。母はそこに洗ったレタスを入れた。
「あら、ありがとう」
「うん」
微笑んだ母を見た瞬間、部活での光景を思い出していた。
先生がバスケットの上に乗ってバーナーを取りつけ、笠原さんはその傍でフレームのカバーを手に待機している光景だ。あの時、先生が手を出せば、笠原さんはすぐにそれを手渡していた。交わされる言葉はほんのわずかだった。
―― 多分、先生が内野に足りないと判断したのは、気配りと観察力だと思う
全てではない。けれど、分かった気がした。
気を配るということは、同時に観察するということ。今、あの人は何を考え、何を必要としているのか。これは相手を思っていなければ決してできないことだ。
「……お母さん、ちょっと部屋に行ってもいい?」
「うん、いいわよ」
「すぐ、戻ってくるから」
煮込んで火を通している間に、私は一度部屋に戻った。もちろん、笠原さんに連絡を取るため。
気づいたこと、わかりかけたことを話さなければ。そう思って携帯を手にしたものの、画面を睨(にら)みつけたまま電話できずに躊躇(ちゅうちょ)していた。
「考えてみたら、笠原さんに電話するのって初めてなんだよね……」
一応、全部員の番号は登録しているけれど、かけたことのない人がほとんど。
部活の連絡はだいたい宮嶋君から回ってくるし、私も宮嶋君を頼っていたから、かける機会はほとんどなかった。
「学校で話せばいいかな……でも、報告しろって言われちゃったし」
学校で話した時は特に何とも思わなかったけれど、いざ携帯を手にすると緊張する。
思い切って通話ボタンを押し、おずおずと耳に押し当てた。コール音が4回ほど鳴ったところで、ガチャッと繋(つな)がる。笠原さんの声よりも先に聞こえたのは、ゴーッと響く雑音。どうやら外にいるらしい。
『もしもし』
少し遅れて、突慳貪ないつもの声がした。私は小さく息を吸い込んで、携帯を握る手に力を込めた。
「う、内野です。今、大丈夫ですか?」
『あぁ、ちょっと待って』
すると、声の合間に聞こえていた雑音が消えた。代わりに聞こえたのは「――とかち4号の改札中です」というアナウンス。笠原さんが駅の中に入ったらしい。
「かけ直した方がいいですか?」
『いや、大丈夫。それで、何かあった?』
「学校で笠原さんに言われたこと、実行したので。そのご報告を」
『――あぁ』
数秒ほど間を置いて、思い出したような返事をする。自分で報告しろと言ったのに、今の今まで忘れていたような口振りだった。
『どうだった?』
「相手のこと、ちゃんと見ていないと気を配ることなんてできないんですね。私にそれが欠けていたこと、やっとわかりました。おかげで今、色々後悔してます」
ドアにもたれたまま、ずるずると滑り落ちるように、その場に座り込んだ。
もっと早く、気づけていれば結果は違っていたかもしれない。そう思うと、肩の辺りが重くなった気がした。
『そこまでわかったなら、あとは“自分がどうしたいか”だけだな』
「どうしたいか……?」
『後悔して落ち込むのは誰でもできるってこと。重要なのは、その後の行動だと思うよ』
―― 5番線に、列車が到着いたします。
再び、背後でアナウンスが響いた。それに耳を傾けているのか、笠原さんの言葉が一瞬途切れた。
『とにかく、腐っていじけるか、受け入れて進むか。ここから先は、内野自身が選ぶしかない。どうしたいのか、自分のことだからわかるだろうし。まぁ、頑張れ』
「えっ、笠原さんっ!」
名前を呼んだ時には、すでに通話は切れていた。暗くなった画面をしばらく見つめた。
私はこれから、どうしたいのか。
笠原さんに言われた言葉が頭の中でぐるぐると駆け回る。その問いかけが、諦(あきら)めの悪い厄介な性格を叩き起こしたのは間違いなかった。
部活を辞めない限り、私にはあと2年という時間が残されている。
腐っていじけるか、受け入れて進むか――後悔した気持ちを引きずったまま2年間を過ごすのか、それとも気持ちを切り替えて過ごすのか。それは、選択肢によって心のありかたが違うということ。悪い方にも良い方にも、考え方によって大きく変わることだ。
「私が、どうしたいのか。どうしたいのか……」
何度も、呪文のようにそれをくり返した。その言葉から導き出される答えは、どうあっても同じ答えばかり。もう、私にはそれしかなかった。腐るのも、受け入れるのも嫌だ。
部屋を飛び出し、私は階段を駆け下りた。リビングのソファに置いてあった上着を手に、そのまま玄関へと走った。
「莉緒、どこ行くの? お昼ご飯、そろそろできるわよ?」
私に気づいた母が、リビングの入口から顔を出した。
今は昼食を食べている場合ではない。呼ばれて振り返ったものの、すぐに踵(きびす)を返した。勢い余って裸足で玄関に下りしまったけれど、この際かまうものか。少し乱暴に靴を履きながら上着を羽織った。
「ちょ、ちょっと、学校に忘れ物しちゃって。取りに行ってくるね」
「ご飯食べてからでもいいでしょ?」
「そうだけど……すぐ戻るから!」
「ちょっと、莉緒!」
呼び止める母の言葉を振り切って、私は家を飛び出した。