天穹のバロン

天穹のバロン

第1回

❉❉❉❉  Ⅰ  ❉❉❉❉

 

 廊下を行き交う生徒たちの声に、放課後のチャイムが重なり合う。

 割れるように響くその音に顔を顰(しか)めながら、私は職員室の前で足を止めた。ドアに貼られたデスクの配置表を目と指で追い、先生の名前と位置を確認してからドアを押し開けた。

「し、失礼します」

 勢いに任せて開けたものの、少し緊張しているせいか声が上ずった。それが恥ずかしくなって、俯(うつむ)き気味に足を進めた。

 入り口から真正面に見える、日当りのいい窓際の席。色白で黒縁眼鏡をかけた、少しばかり童顔の先生が座っている。古典担当の上条先生だ。

 何か難しいことでも考えているのだろうか。眉間(みけん)にシワを寄せてパソコンの画面を睨(にら)み、カタカタとキーを叩いている。

「あの……上条先生」

 様子を窺いながら声をかけると、猫背気味になっていた背をピンと伸ばして、こちらへ顔を向けた。

「内野か。どうした?」

「これ、提出しに来ました。よろしくお願いします」

 差し出したのは【入部届】。受け取った先生は、それを目にするなり「おっ」と、興味深げな声を上げた。

「うちの部活、かけもちが条件だけど大丈夫か? もう一つの部活は?」

「書道部にしようかと思っています」

「そうか。でも、いいのか? うちの部活、朝早いぞ?」

 と、からかうようにニヤリとされた。だから苦笑いを返した。

 正直言って、早起きはあまり得意ではない。朝ご飯を抜いてでも、ギリギリまで寝ていたいくらいだから。それでも、私がやりたいと思って選んだことだもの。どうにでもなる。いや、どうにかしてみせる。

「だ、大丈夫です」

「まぁ、最初はキツイだろうけど、すぐに慣れるよ。色々準備もあるだろうし、土曜から開始ってことで。朝6時に校舎前に集合」

「わかりました」

「それじゃ、これからよろしくな」

 そう言って、先生は机の端に立てかけていたファイルに手を伸ばした。【上士幌高校熱気球部】と書かれたそのファイルに、私の入部届がしっかりとおさめられる。

 パタンッと閉じられたその瞬間、私の抱いた夢が音をたてて動き出したように思えた。

 

 

❉❉❉❉

 

 私の日常が慌(あわ)ただしく変化したのは、半年前のことだった――

 

「えっ、北海道!?」

 私の声は思いのほか大きく、リビングに反響した。

 食事の最中、何の前触れもなく父の口から告げられたのは、引っ越しが決まったという事実だった。テーブルを挟んだ向かいの席に座っている両親を、私と弟の歩(あゆむ)はただ呆然と見つめていた。

「それで……北海道のどこに転勤になったの?」

「いや、今度は転勤じゃないんだ」

 言いよどんでから、父と母が顔を見合わせた。言いづらいことでもあるのか。その表情を見て、不安がジワリと体の中に広がっていく。

「もう何年も前から考えていたことなんだ。今の仕事を辞めて、爺ちゃんがやっている建設会社を手伝おうと思っているんだ」

「それ、もう決まったことなの?」

 私の問いに、父はゆっくりと頷いた。その仕草が、私の不安を煽(あお)った。

「爺ちゃんにも、ずっと前から戻ってきてほしいって言われていてね。ちょうど、莉緒(りお)は高校受験だし、歩は中学にあがる。向こうへ行くのは、この時しかないだろうって思っていたんだ」

「住む場所はしばらくの間、お爺ちゃんの家にお世話になろうかって、話になっているの」

「えっ! お爺ちゃんと一緒に暮らせるの?」

 母の話に、歩は声を弾ませて喜んだ。相変わらず呑気というか。私とは違って楽観的な性格だから、なおさらかもしれない。

「姉ちゃん、北海道だよ。北海道!」

「歩、嬉しそうだね」

「姉ちゃんは嬉しくないの?」

 私は肯定も否定もできず、誤魔化すように味噌汁をすすった。

 おそらく、旅行にでかけるような感覚なのだろう。いつものパターンだと「友達と離れたくない、新しい学校で友達ができるかどうかわからない」と、後になって駄々をこねるのは目に見えている。喜んでいられるのも今のうちだけだ。

「歩。今の状況、わかってるの?」

「わかってるよ。北海道に引っ越すんでしょ?」

「そう。でも、今までとは違うの。ずっと住むことになるのよ」

 少し投げやりに言って、残りのご飯を口一杯に頬張った。

 北海道にある上士幌町に住んでいる父方の祖父母の家には、毎年のように遊びに行っていた。どこに何があって、どんな景色が広がっているのか。今もそこに住んでいるみたいに、手に取るようにわかる。

 多少の心配はあっても、祖父母のいる町だし、初めての地ではないだけマシかもしれない。ただ、遊びに行くのと引っ越すのとでは訳が違う。一時を過ごすのではなく、おそらくは永住。はいそうですか、と、素直に受け入れられるものではない。

「……私、志望校も決めてたし、友達と一緒に行こうって約束もしてたのに」

「そのことは、悪いと思ってる。莉緒、ごめんな」

 父は頭を深く下げた。その姿を見ていられなくて、私はぎゅっと目を瞑(つぶ)った。

 言いたいことはたくさんあった――どうして決める前に相談してくれなかったのか。どうして今なのか。全てをぶつけてしまいたい衝動にかられても、それはほんの一瞬。

 ここで私が騒いだところで、この事実が変わるわけでも、引っ越しが白紙に戻るわけでもない。子供みたいなわがままをぶつけられる歳でもないし、何より両親を困らせたくはなかった。結局、言葉として吐き出す前に感情が鎮まっていった。

「うん……わかった。高校は、向こうで受けられそうなところ探してみるね」

「莉緒、ありがとな」

「決まっちゃったことだもん、仕方ないよ。間に合わなくなる前に準備しないとね」

 私は早々に食事を済ませて部屋に戻った。

 それからしばらく、何も考える気にならなかった。椅子に座るわけでもなく、ただドアに寄りかかったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。

「北海道、か……」

 転校も引っ越しも、これが初めてではない。

 父の仕事の都合もあって2、3年の間隔で各地を転々としていた。中でも、東京での生活は5年目。仮に転勤になったとしても、高校受験を控えた私を連れて行くわけがない。そう高を括(くく)っていただけに、意外とショックは大きかった。

 仲良くなった友達と離れることも、住み慣れた町を出ることも、最初の頃は嫌だったけれど、数を重ねる内に、気づけば慣れていた。「また移動するのね」と、割り切れるくらいには心が動かなくなっていた。そんな私が、小さい頃に捨てたはずの想いを久々に味わって、戸惑っている。

 仕方ない――そうは言ったものの、完全に割り切れたわけではなかった。それでも今は行動するしかない。渋々机に向い、力なく椅子に座った。

 パソコンを起動し、立ち上がるのを待ちながら、傍に置いてあった携帯を手に取った。開いたのは電話帳。並んだ友人たちの名前をつらつらと眺め、その途中で目に留まった“瑠璃”の名前に胸が痛む。

 同じ高校へ行こうと約束をしていたのに、北海道へ引っ越すことになったと言ったら、瑠璃はどう思うだろう。裏切り者だと思うだろうか。嫌われはしないだろうか。そんなことばかりが頭の中を巡っていた。

「……何て言ったらいいのか、思いつかないよ」

 直接会って話す前に連絡しておこう。電話がいいだろうか、メールがいいだろうか。色々考えてはみたものの、上手く説明できるだけの言葉が見つからず、結局、電源を切った。

 何を言われてもいい。瑠璃には、後で何度でも謝ろう。今は、目の前にある現実を受け入れて、行動することが最優先だった。

「高校探すって言っても……私、何も知らないんだよね」

 知っていても、せいぜい観光地くらいだ。住むという目的で調べたことはないから、知っているようで何も知らないのが現状だった。

 とりあえず、私が住むことになる【上士幌町】で検索をかけてみた。トップに表示されたのは、旅行者向けのサイトや町が運営しているホームページ。ナイタイ高原牧場をはじめ、アーチ橋ツアーの案内や写真が大きく掲載されている。

 観光協会のサイトから、個人のブログで紹介された旅行の記事まで、様々な情報が溢(あふ)れるその中で“上士幌高校熱気球部 バルーン・フェスティバルで総合優勝”の文字が目に留まった。

 夏と冬の年2回、上士幌町で開催される熱気球の大会のことだ。全国各地から集まる熱気球のチームを押し退けて、高校生のチームが優勝したという記事だった。

 上士幌高校――キーボードに置かれていた指は、無意識のうちにその文字を打っていた。

「へぇ、熱気球部なんてあるんだ。高校にこの部活があるのって、北海道ではこの高校だけなんだね」

 熱気球部……どんなことをする部活なんだろう。最初はほんの少しの興味だった。身近ではないものへの好奇心、ただそれだけだった。

 熱気球なんて、ただ飛ばしているだけだと思っていたけれど、得点を競うための競技種目が幾つもあって、それには高い操縦テクニックが必要になるらしい。

 上士幌高校熱気球部にはパイロットを目指す学生もいて、卒業生の中には在学中に取得した学生もいたみたいだ。その生徒に密着取材をしたドキュメンタリーが放送されていたり、地方局のテレビ番組が、何度か部活の取材にも来ているようだった。

「熱気球部かぁ……ちょっと面白そう。せっかく北海道に引っ越すんだから、他ではできないことしたいよね」

 再び高校のホームページへ戻り、部活紹介のページに掲載された写真をクリックした。

 夏の青空に飛び立つ熱気球を背景に、広大な緑の平原に笑顔で立つ部員たちの写真を目にした瞬間。私は瞬きをするのも忘れて、画面を見つめていた。神経や意識、思考や行動、あらゆるものがそこに吸い寄せられて、根こそぎ奪い去られたような、そんな感覚に近い。

「そっか、あの時の――」

 どこまでも高い青空

 遥か地上に見える町

 頭上で響くバーナーの音

 断片的な記憶が一瞬で脳裏を駆け抜けた。

 小学校にあがる少し前、父と一緒に熱気球に搭乗したことがあった。怖かったのか、楽しかったのか。あの時に味わった感情が何だったのか、小さかった私にはわからなかった。でも、やっとわかった気がする。

 圧倒されたんだ――あの音と、風と、景色に。

 私は画面に手を伸ばし、表示された熱気球部の写真に指先で触れた。その時、ゴオォッと吹き上がるバーナーの音が、耳の奥で聞こえた気がした。

第2回

❉❉❉❉

 

 その週の土曜日。時刻は午前5時40分。

 何度目かわからない欠伸(あくび)をし、閉じそうになる目を何とか見開きながら、つま先に引っかけるように靴を履いた。

「お婆ちゃん、いってきます」

「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」

 祖母に見送られながら、玄関のドアを勢いよく押し開けた矢先のこと。吹き込んできた冷たい風に驚いて体は反射的に強張り、すぐさま立ち止まった。

「えっ、うそ。雪!?」

 目の前に広がったのは、真っ白に染まった景色。地面はもちろん、庭先に植えられた桜の木の枝や、父の車の上にも、数センチほどの雪が積もっていた。

 状況が理解できず呆気に取られている間にも、冷たい空気がそろりと忍び込んできた。ドアノブを掴んでいる手を撫で、足元をサッと通り過ぎていく。目に見えるはずのない風の動きが、はっきりとわかるくらいだった。

「もう4月も半分過ぎたのに、雪だなんて」

 信じられない。そう言いかけた言葉は、寒さからどこかへ行ってしまった。

「お婆ちゃん、雪だよ、雪っ」

「夜中に降っていたみたいだね。まぁ、こっちでは珍しくもないさ。去年なんて、5月の初めにも雪が降ったくらいだからね」

「さすが北海道。気候が全然違うんだね」

 この町で桜が見られるのは、早くても5月半ば。春に降る雪は珍しくもないと、父から話だけは聞いていたけれど、実際にこの目で確かめるまでは信じていなかった。

「ほら、部活の時間はじまっちゃうよ」

 立ち止まっている私の背を、祖母がトンと軽く叩いた。踏み潰していた靴をちゃんと履き直して、仕切り直し。

「それじゃ、いってきます」

「気をつけてね」

 祖母に見送られ、私は家をあとにした。

 その日の空気は張り詰めたような冷たさだった。湿り気が無く乾いていることもあって、肌を撫でるピリピリとした感覚は、痛いとすら思うほどだ。

 早朝のせいか、道路を走る車は一台もない。聞こえるのは、遥か上空を旋回する鳶(とんび)の鳴き声と、微かに吹く風の音。そして私の足音。ただひたすらに、そこにある音を聞きながら、真っ直ぐ伸びた一本道を歩いて行く。

 家から高校まで歩いて10分。寒さに手を擦り合せ、息を吐きかけながら、ようやく校門へと到着した。そこから上条先生と数人の学生が校舎前に集まっているのを見て、ハッとした。集合時間を間違えたのかもしれない。私は慌てて駆け出した。

「お、おはようございます。すみません、遅れました」

「おはよう、内野。大丈夫、少し早いくらいだ。他の部員がいつも早いんだよ」

「そ、そうなんですか? よかった……」

 ホッと胸を撫で下ろしながら、おずおずと見回した。

 隣にいたのは同じクラスの宮嶋春斗。ワカメみたいな天然パーマの髪を掻(か)きながら、タレ気味な目を細めて、ひかえめな欠伸(あくび)を一つ。目が合うなり小さく会釈された。

「皆そろったことだし、始めようか」

 先生のかけ声に、他の部員たちが返事をし、各々が頷いた。

 部員は6名。3年生の部員はゼロで、現在は2年生だけ。新入部員は私と宮嶋君の2名のみで、おまけに女子部員は私1人だけだった。

 その場で簡単な自己紹介をしたけれど、眠気と寒さ、緊張のせいか先輩たちの名前が頭に入ってこない。ただ、部長が「笠原凌太さん」だということは憶えた。なにせ、部員の中でも頭一つ分背が高く、黒縁眼鏡に、きりりとした太くて短い眉毛。その風貌と存在感は、黒光りした毛にスラリとした細身のドーベルマンみたいだった。

「とりあえず、内野と宮嶋は見学。立ち上げとか準備の流れ、一通り見てもらおうかな。凌太、指示出して準備な」

「了解です」

 挨拶を終え、さっそく活動開始。先輩たちの後を追ってグラウンドへ移動した。

 野球グラウンド横の芝生に一台のワゴン車が停車している。笠原さんは真っ先に後部席のドアを開けると、乗り込む様子もなく、ドアの前で何やら作業をしている。その手には色鮮やかなグリーンの風船が握られていた。

「先生、飛ばします」

「んっ。いいぞ」

 それを合図に、笠原さんは風船を離した。

 空へ吸い寄せられるように、真っ直ぐに飛んでいく風船を、先輩たちはじっと見上げている。

「先生、あれは何をしているんですか?」

 私は少し声を潜(ひそ)めて訊ねた。

「風の流れを見ているんだ。どの方角へ吹いているのか、どのくらいの強さなのか。風が強過ぎる時に熱気球は上げられないからな」

「今日は飛ばせそうなんですか?」

「そうだな。風が穏やかだから、比較的流されずに真っ直ぐ上がってる。問題ないよ」

 先生はそう話しながら、笠原さんにOKサインを出した。

 そこからの作業はあっという間だった。プロパンガスが詰まった4本のボンベをバスケットに積んで、バーナーを取りつけて、20メートル近くある球皮を広げていく。

 一つひとつの作業を見ても、細かな決まりがあって工程も分かれている。どう見積もっても時間のかかる作業のはずなのに、そう感じさせないのは、先輩たちの手際の良さとチームワークといったところだろうか。

 それらの作業が終わり、いよいよ球皮を膨らませていく。熱気球の飛行には欠かせない、あの風船の部分だ。

 先輩が2人、球皮の開口部を持って広げている。そこへ、ガソリンエンジンで稼働するインフレーターという送風機が登場。ブロロロッと唸るようにエンジンがかかり、送り出された強烈な風が中へ一気に吹き込んだ。球皮は大きく波打ちながら、みるみる膨らんでいった。

「内野、宮嶋。入ってみるか?」

『へ?』

 突然のことに、私と宮嶋君は気の抜けた返事をした。

「どこに、ですか?」

「球皮の中だよ。入ったこと、ないだろう?」

「いいんですか?」

「今日だけな」

 私と宮嶋君は、確かめるように互いの顔を見交わす。先生に促されるまま、球皮の中へと足を踏み入れた。

「なんか、感動……」

 宮嶋君はきょろきょろと中を見回しながら呟いた。私もこくりと大きく頷いた。

 立ち上がる前の球皮内は、インフレーターから送り込まれた風が轟々(ごうごう)と音を立てて渦巻いている。その薄い半円状の布の内側からは、徐々に明るくなり始めた空の色と、球皮を彩る赤や黄色の模様が重なり合って、うっすらと透けて光っていた。

「この感じって、あれに似てる」

 と、宮嶋君がまた呟いた。

「あれって?」

「ほら、お祭り会場とかに特設されてる、ドームタイプの巨大エア遊具」

 おそらく、キャラクターのお腹の中に入ってぴょんぴょん飛び跳ねる、あの遊具のことだろうか。確かに、充満しているビニールっぽい匂いや、見上げた時の光景は少し似ている気がする。

「内野、宮嶋! そろそろバーナー使うから、戻ってこーい」

 そこへ声が届いた。入口からこっちに向かって、先生が手招きをしている。

 横倒しになったバスケットとバーナーの間に笠原さんが入って、何やら準備を始めているのが見えた。

 私と宮嶋君はすぐに外へ出た。それを確認し、先生は笠原さんの隣に立った。

「バーナー、入ります!」

 笠原さんが声を上げ、バーナーのレバーを引いた。その瞬間――空気をビリビリと震わせながら、澄んだ赤い炎が球皮内に向けて放たれた。

 吐息も白くなる寒さだったのに、バーナーの熱は球皮内だけではなく、その周囲の空気まで一瞬で温ためてしまう。離れた場所に立っていた私のところにまで、その熱が伝わってくるほどだった。

 温められた空気は球皮の中で膨張し、横たわっていた球皮がふわりと立ち上がっていく。その様子は深海を漂う巨大なクラゲみたいで、優雅なのに力強ささえ感じる。驚きや感動、色々な感情が混ざり合って、私は完全に圧倒されていた。

「宮嶋君、熱気球って、こんなに大きかった?」

「俺も久々に近くで見たけど、迫力あるね」

「うん……」

 返事をした私の顔は、きっと間抜けな顔になっていたかもしれない。口をぽかんと開けて、目を丸く見開いていたのだから。

 そうして準備が終わり、後は空に飛び立つのみ。浮力でバスケットが浮かび上がるのを先輩たちが押さえつけ、その隙に、笠原さんと先生が素早く乗り込んだ。

「あと1人、誰か乗ってくれ」

「先生、せっかくだから、2人のどちらかでいいんじゃないですか?」

 笠原さんが私と宮嶋君を指差した。急に指名されたものだから、私たちは互いを探るように顔を見合わせた。もちろん、先に乗りたいというのが本音。

 今日のフライトは、ロープで地上に繋(つな)がれた係留飛行ではなく、どこまでも高く飛んで行ける、熱気球本来の飛行が可能なフリーフライト。私にとっては初めての紐無し飛行だ。

「内野、乗ったら?」

「いや、宮嶋君も乗りたいでしょ?」

 お互い、口では遠慮しながらも顔には“乗りたい”と書いてある。しばらく譲(ゆず)り合いが続いていたけれど、いつまで経っても決着がつきそうにない。仕方なく、私は握った拳を突き出した。

「ここはやっぱり、ジャンケンでしょ?」

「賛成」

 突き合わせた拳を小さく振って、ジャンケン、ポン。宮嶋君はグー、私はパー。軍配は私に上がった。

第3回

 バスケットの側面中央にある、小さな四角い窓のような部分に足をひっかけて、ヒョイッと跨(また)ぐ。飛び込むようにバスケットの中に入った。ガスボンベが四つ角に積め込まれていることもあって、見た目の大きさに反して中は意外と狭かった。

「よし、行くか。凌太、いつでもいいぞ」

「はい。それじゃ、行きますね」

 先輩たちがバスケットから手を離し、笠原さんがバーナーのレバーを思いっきり引いた。吹き上がったバーナーの熱は、球皮いっぱいに蓄えられ、熱気球は空へと飛び立った。

 ものの数秒で高度は上がり、地上にいる宮嶋君や先輩たちは、あっという間に小さくなって、すぐに見えなくなった。

 観覧車や飛行機みたいに、壁に守られて内側から見る景色とは全く違う。風の流れや音、そこを駆け抜ける空気の匂い。何もかもが想像とは違っていた。

 何より、一番の予想外は高さだった。一定の高さ以上は上昇できない係留飛行とは比べものにならない。あまりの高さに足が面白いくらいに笑って、力が抜けて、踏ん張っているのがやっとだった。

「内野、どうした。怖いか?」

 バスケットの縁に額(ひたい)を付けて突っ伏す私に気づき、先生は少し驚いた様子で声をかけた。

「ちょ、ちょっとだけ」

「最初はそんなもんだよ。時間が経てば慣れるさ」

 と、ケラケラ笑いながら私の肩を叩いた。

 そんな私のことなどお構いなしに、先生と笠原さんは、風の向きや場所について話している。

 大丈夫。もう少しで慣れるはずだから、大丈夫。

 心の中で自らに言い聞かせ、長めの溜息(ためいき)をついた時だった。ふと、左頬が温かくなったことに気づいて顔を上げた。

 下ばかり見ていた私の視線が、その時初めて、そこに広がる景色を捉える。恐怖心がどこかへ消えていくのを確かに感じた。

「きれい……」

 白い残月が浮かぶ薄紫色(うすむらさきいろ)の空に、白銀の朝陽(あさひ)が広がっていく。

 息をのむ――私は初めて、その感覚をはっきりと感じた。

 地上へ降り注ぐ朝陽は、どこまでも続く真っ白な雪の大地と、ジオラマみたいに小さくなった私の町を照らしている。

 今、私は空にいる。その感覚さえ麻痺(まひ)してしまうほど、そこは私の想像を遥かに超えた世界だった。

 空を行く鳶(とび)や鷹(たか)は、こんなにも高い世界から地上を見下ろしていたのか。そう思うと瞬(まばた)きさえも惜しくなる。それほどに、目の前に広がる景色は幻想的だった。

 言葉も、吐息も、瞬きさえも。全ての感情を掻(か)っ攫(さら)っていく。

 もっと言葉があるはずなのに。伝えたいことはたくさんあったはずなのに。この景色を見たとたんに、私の中の言葉はどこかへいってしまった。

 それに――何もかもが、どうでもよくなった。ずっと悩んでいたことが、途轍(とてつ)もなくちっぽけなことに思えた。どうして悩んでいたのか、その理由すらわからなくなるくらい。目の前に広がる景色が、全てを吹き飛ばしてしまった。

「先生、すごいですね! すごい……」

「内野、さっきからそればかりだな」

 先生がおかしそうに笑った。それでも私は、バスケットに掴(つか)まりながら、身を乗り出すように景色を眺めた。さっきまでの恐怖心はどこへ行ってしまったのか、自分でも不思議なくらいだった。

「だって、すごいじゃないですか」

「うん、確かにな」

 先生はその景色を見慣れているからなのか、少し素っ気ない返事をして、地上から追走している部員たちとレシーバーでやり取りをしている。

 一人で喜んでいるのが馬鹿みたいで、私は少しいじけながら、昇り始めた太陽に視線を向け、その眩(まぶ)しさに目を細めた。

「よし、そろそろ下りるか。凌太、頼む」

 今日のフライトを担当している2年の笠原さんに、先生が指示を出した。

「了解です。ポイント、どこにします?」

「練習も兼ねて、自分で考えな」

「えぇ……」

 あからさまに自信がなさそうな返事をして、笠原さんは小さく溜息をついた。文句を言いつつも、それでも笠原さんは淡々と作業を続ける。

「先生、その先の畑、試してみてもいいですか?」

「この真下じゃなくて?」

「ここは電線が多いので、引っかかったら嫌なんで」

「わかった、やってみな。凌太、この辺で高度落としておけよ」

「はい」

 笠原さんはバーナーフレームの傍にだらりと下がっていた紐を力一杯引いた。とたんに熱気球が降下。滑るように地上へ近づいていく。一体、今のはなんだったのか。私は球皮を見上げた。

「先生、今のは?」

「球皮内の熱を外に逃がして、高度を調節したんだ。球皮の天辺にリップラインっていう、排気するパラシュートがある。さっきの紐を引くと、排気できるようになっているんだ」

「先生、そろそろ着地させます」

 淡々とした笠原さんの声が会話に割り込む。

 球皮の内部を見上げている間に、熱気球は地面目前まで迫っていた。

「内野、少し揺れるから気をつけろよ。凌太、慎重にな」

「了解です」

 地面まで、あと数メートル。

 真っ白な雪が積もる広大な畑に、熱気球のシルエットがくっきりと映る。

 笠原さんはバスケットから身を乗り出し、短く、数回バーナーのレバーを引いた。降下していた熱気球はふわりと一旦上昇。数十センチの空中を滑るように飛んで、トンッと、軽く触れるように地上に着地した。

 間もなくして、部のワゴン車で追走していた副顧問の先生と先輩たちもその場に到着。畑に着陸した熱気球のもとへ駆け寄ってくる。

「先生、どうでした?」

「んー、上出来。今までで一番良かったかもしれないな」 

 探るように訊(たず)ねる笠原さんに、先生はニッと笑ってそう答えた。その時の、照れくさそうな笠原さんの笑顔が、私の中の“何か”を確実に動かした。それが感情なのか、感覚なのか、今はわからない。

 風の流れを読んで目的の場所へと向かう――それは、どんな気分なんだろう。そんな強烈な想いが、背筋を駆け上がっていったのは確かだった。

 

❉❉❉❉

 

「先生。パイロットの資格は、どうすれば取れるんですか?」

 その日の部活終わり。

 先輩たちが校舎裏にある倉庫へ、バスケットやインフレ―ターを片付けに向った隙(すき)を見て訊ねた。

「色々やることはあるけど、最終的には筆記試験と実技試験を受けることになる。免許、取りたいのか?」

 ワゴン車に積まれたガスボンベを降ろしながら、先生は聞き返した。私はそれを受け取りながら、真っ直ぐに先生を見て頷(うなず)いた。

「私、半年前まで東京に住んでいたんです。お父さんの仕事の都合で引っ越すことになって、どの高校を受験しようかって探していた時に、たまたま上高(かみこう)のホームページを見つけて、この部のことを知って。それで、ここを受験しようって決めたんです」

 話しながらガスボンベを持ち上げると、すぐさま先生が底の方を持って支えてくれる。2人がかりで抱え、そのまま倉庫へと向かった。

「パイロット免許取るために、ここを受験したのか?」

「いえ、その時はまだ――」

 倉庫入口に差し掛かったところで、片付けを終えて出てきた先輩たちとすれ違った。何となく、この話を聞かれるのが嫌で、とっさに口を閉ざした。

 足音と気配が遠ざかるのを横目で確認しながら、倉庫の奥へと進んだ。窓がないせいか中は暗く、外以上に冷えていた。

「最初は部活に興味があっただけだったんです。熱気球部ってどんなことをするんだろうって――でも今日、乗せてもらって変わりました」

 バスケットの傍にガスボンベをおろし、ふと顔を上げれば、周囲に置かれたバーナーフレームやインフレ―ターが自然と視界に映る。

 頭の中で何度も再生されるのは、バーナーの音と、笠原さんが熱気球を操縦する姿。

 レバーを引くのも、風を読む感覚も、頭上で広がる熱も。その全てを、自らの身を持って体感したい。自分のものにしてみたい。その想いは、空で景色を見た時よりも強くなっている気がした。

「私も、操縦できるようになりたいです」

 そう言った私に、先生は腕を組み、小さく息を吐く。地面に向けていた視線が不意に私を捉え、真っ直ぐに見据(みす)えられて思わず身構えた。

「パイロットの試験は、受けたいからといって誰でも受けられるものじゃない。まずは【Pu/t】になることが必要なんだ」

「ピ、ピーユーティー、ですか?」

「スチューデントパイロットといって、簡単に言うとパイロットを目指す人たちのことだ。まずは気球連盟の会員になって【Pu/t】として登録していることが第一条件だ。その【Pu/t】に相応(ふさわ)しいかどうかは、これから内野を見ていくことになる」

 不意に、先生の視線が逸(そ)れた。その先には、入口付近に停めたワゴン車の傍で、部員たちと楽しそうに話している笠原さんの姿があった。

「笠原も、内野と同じようにパイロットの資格取得を目指している。入部から1年間、笠原がパイロットに向いているかどうか。部活でのことはもちろん、色んな姿を見て判断してきた」

「それで、笠原さんは?」

「今年の春から【Pu/t】として、本格的にトレーニングに入っているよ」

 つまり、先生に“相応しい”と認められることが第一関門。その期間は1年。その間に、私の行動全てが審査されるこということだ。

「もしその1年の間に、パイロットには向いていないと判断されたら……?」

「残念だけど、【Pu/t】として登録させるのは難しいかな」

 突きつけられた現実に、私は力なく息を吐くしかなかった。

 パイロット免許に限らず、専門の資格を取るということは簡単な道のりではない。生半可な気持ちでは駄目。わかっていたつもりでも、改めて、言葉として受け取って実感した。

「楽しいことばかりじゃないし、むしろ大変なことの方が多い。それでもやってみるか?」

「……はい。よろしくお願いします!」

「そうか、わかった。これから一年間、頑張っていこうな」

 肩を叩き、先生は倉庫から出て行く。私は振り向くこともできず、遠ざかっていく足音に耳を傾けることしかできない。心なしか、握り締めた手が震えていた。

第4回

❉❉❉❉  Ⅱ  ❉❉❉❉

 

「今日は内野と宮嶋を中心に準備を進めてくれ」

 雲一つない晴天の下。憎らしいほどに、先生はニヤリと不敵に笑った。

 私は風船を手にしたまま、宮嶋君はワゴン車のドアに手をかけたまま、先生の一言に固まっていた。どちらからともなく顔を見合わせ、私は苦笑いを返した。

「私たちですか?」

「そう。時間なくなるからな。さっさと始めるぞ~」

 ぐずぐずするなと言わんばかりに、パンパンパンッと、手を打ち合わせた。まるで、餌の時間だと手を叩いて呼び寄せられた子犬の気分だ。

 入部から2ヶ月――準備から立ち上げまでの流れは、一通り理解しているつもり。ただ、今までは部長である笠原さんが中心になって進めていたし、私や宮嶋君はその指示のもと動いてきた。まさか、その指示役が回ってくるとは思いもしなかった。

 どうすべきか、助けを求めて笠原さんに目をやった。どうしましょうと目で訴えかける私を、笠原さんは一度だけじっと見つめて「頑張れよ」と言いたげな作り笑い。さらりと視線を逸(そ)らされてしまった。

「ど、どうする?」

「どうするって、いつも通りでしょ?」

 戸惑(とまど)う私を余所に、宮嶋君はあっけらかんとしていた。

 私が抱えていた風船を取り上げて「飛ばしま~す」なんて、呑気(のんき)な調子で飛ばす。この状況を楽しんでいるような様子を前に、余裕のない自分が情けなく思えてしまった。

「んー、今日も真っ直ぐでいい感じだね。よし、さっさと始めるよ」

「う、うんっ」

 宮嶋君に急かされて準備開始。運び出されたバスケットに入ったのは私だった。いつも笠原さんが立っているその場所に、今は私が立っている。たったそれだけのことなのに、言いようのない緊張が襲ってくる。

 その時、ゴンッと音を立ててバスケットが揺れた。驚いて顔を上げると、笠原さんがバスケットの縁(ふち)にガスボンベを乗せていた。

「内野、手止まってる」

「す、すみません」

 受け取ったガスボンベ4本を、バスケットの隅に専用のベルトで固定。隙間(すきま)なくぴったりと、動かないように固定しなければならない。

 筋力がないことは何の自慢にもならないけれど、私にとってはこの作業がもっとも苦労する。引きちぎる勢いで引っ張っても、私の力ではどうにも手間取ってしまう。それぞれを固定し終わる頃には、その日の握力を使い果たしたくらいに、指先に力が入らない。むしろ笑っていた。

「内野、なに休んでんの」

「うわっ、あ、はい!」

 息つく間もなく、先輩たちはバーナーフレームを運んでくる。受け取って、設置して、繋(つな)いで。気づけば、指示を出すどころか作業に追われている有様。

 その最中、ふと視線を感じた。いつも一緒に準備をしている先生が、少し離れた場所からこちらの様子を眺めていた。

 

―― これから内野を見て判断することになる

 

 先生が言っていたあの言葉は、すでに始まっている。私と宮嶋君が中心となるよう指示を出したのも、全ては【Pu/t】として相応(ふさわ)しいかどうかを判断するため。

 ビリリッと、痺(しび)れるような緊張感が爪先から脳天へと駆け抜ける。忙(せわ)しなく鳴いている蝉の声がやけに大きく聞こえ、不安を煽(あお)っていった。

「内野、次の指示」  

 呆然としていた私に、笠原さんが小声で言った。そんな言葉でさえ、心臓に突き刺さるような痛みを覚えた。 

「――えっ、はい! えっと、次は球皮を」

「違う」

 バスケットから出ようと足をかけたところで、笠原さんに止められた。

 無言のまま、頭上のバーナーを指差されたけれど、それが何を意味するのかわからない。ぼんやりと見つめるだけ。わかっているはずなのに、何も出て来ない。完全に頭が真っ白になった。

「……」

「バーナーの点検」

「っ! そ、そうでした!」

 言葉に突き動かされるまま、私はレバーを引いた。

 突然の轟音(ごうおん)に、宮嶋君や先輩たちは驚いて振り返る。それ以上に驚いたのは私の方。慌てて手を離した反動でバランスを崩し、転びそうになりながらバスケットにしがみついた。

「こ、声かけてから、でしたよね……」

 誰もが作業の手を止め、数秒の沈黙が流れた。これほど気まずい空気を味わったのは初めてだった。

 それからの時間は最悪そのもの。中心になって準備するどころか、気がつけば笠原さんと宮嶋君の指示に従いながら作業を終えていた。

 この2ヶ月、私は何をしてきたのだろう。その言葉が脳裏に焼きついて離れなかった。

 

❉❉❉❉

 

 その日のお昼休み――

「莉緒(りお)、具合でも悪いの?」

 かけられたその声で、私は我に返った。向いに座っている真菜(まな)と千鶴(ちづる)が、心配そうに顔を覗(のぞ)き込んでいた。

「う、ううん、大丈夫だよ」

「でも、さっきからぼーっとしてるよ?」

「何かあった?」

 何も。そう言かけて、出たのは溜息(ためいき)。とたんに、今朝の部活での失敗が蘇(よみがえ)って、表情は苦々しく歪(ゆが)んでいった。

 手元には今日の給食が置かれている。メニューはビーフシチューと、30センチはあろうかという長い揚げパン、ツナサラダ、デザートにはミルクプリン。淡いグリーンのトレイに並んだその料理を前にしても、私の食欲はいっこうに湧(わ)いてこない。

 シチューの器に沈んだスプーンは、ただただそれをかき混ぜるだけ。ほんのり温かかった揚げパンも、すっかり冷めて固くなり始めていた。

「実はね……今日、部活で色々失敗しちゃって」

「それで元気なかったの?」

 真菜の問いに頷きつつ、ようやくシチューを一口。もう少し温かくて、私に食欲があれば、もっと美味しく感じられたかもしれない。

 再びスプーンを置いて、器の中でくるくるとかき混ぜる。千鶴は笑い飛ばしながら、私の肩を叩いた。

「失敗くらい誰でもあるって。気にした方が負けだよ? もっと楽に考えなよ」

「うん、それはわかってるんだけど……」

 はっきりしない私に、千鶴は「仕方ないなぁ」と、自分のミルクプリンをくれた。「甘いもの食べると幸せな気分になるよ~」って。そういう千鶴の明るさに、少し気持ちが楽になった。

「それで? 部活でどんな失敗したの?」

「……色々」

「色々? ほら、話した方が楽になるんだから」

 何でも聞くよと、千鶴は前のめりになる。

 あれも、これも。今日の失敗の全てを口にしたら、それこそ立ち直れなくなりそうだった。ひょっとしたら泣いてしまうかもしれない。それだけは避けるため、言葉を濁(にご)すことにした。

「本当はね、もっとちゃんとできることがあると思ってたの。でも、想像以上に何も身についてなかったんだって、思い知らされた気がして……」

「莉緒。そこまで部活に入れ込む必要ないんじゃない?」

 真菜はさらりと、少し冷たいとさえ思うくらいに、淡々とした口調で言い放った。

「3ヶ月は辞められない決まりだから、今すぐは無理だと思うけど。期間が過ぎたら、とりあえず帰宅部に戻ったらどう?」

「帰宅部、ねぇ……」

「辛いだけの部活なんて、他に影響するから辞めた方がいいと思うわ」

 現実主義な真菜らしい考えだった。

 入学してまだ数ヶ月だというのに、真菜はすでに卒業後の進路も見据(みす)えている。幼稚園教諭の資格を取りたいからと、必要な習い事をたくさんしているらしい。

 部活に打ち込んでいる暇がないという理由で、選んだ部活は廃部寸前の写真部。もちろん興味があったわけでも、写真が好きだったわけでもない。部員が少なく、活動自体もほぼ無いに等しいことから、3ヶ月後には辞めやすいだろうという計画的なものだった。

「千鶴も、辞めた方がいいと思う?」

「まぁね。私、そういう面倒なこと苦手だから。もし辞めるなら、家庭部おいでよ。毎週、色んなお菓子作れるから楽しいよ」

 と、千鶴は今日の部活で作ることになっている、ベイクド・チーズケーキの本を見せてくれた。こんがり焼き色のついたチーズの生地(きじ)が、なんとも美味しそう。

「先輩たちは優しいし、お菓子作りは楽しいし。莉緒、家庭部おいでよ」

「せっかくだけど……熱気球部活を辞めるつもりはないんだよね」

「熱気球に思い入れでもあるの?」

「えっと、うん……まぁ。ちょっとね」

「わかった! 好きな人がいるから辞められないんでしょ!」

 千鶴は私の顔を指差してニヤリとし、真菜は「そういうことね」と、納得したように何度も頷いた。

「ち、違うよっ! いない、いない」

「否定するところが逆に怪しい。誰よ?」

「部員って、誰がいたっけ?」

 真菜は揚げパンを小さく千切り、頬張りながら首を傾(かし)げた。

「私と宮嶋君以外は、2年生の先輩しかいないよ」

「宮嶋? それって、宮嶋春斗(はると)のこと?」

 その名前を聞いた千鶴は、教室内をゆっくりと見渡した。窓際の最後尾の席で、友人たちと騒いでいる宮嶋君を見つけるなり、何度も首を横に振った。

「あぁ、あいつはないわ。男として意識できない」

「今は男子といることが多くなったけど、中学までは女子とばかり行動してたから、なおさらだよね」

「そうなの?」

 2人は『うん』と、声を揃(そろ)えた。

「私も真菜も、宮嶋とは幼稚園から一緒なの。その頃からなんだけど、女子の中にいる方が違和感なかったんだよね」

「むしろ、男子といる方が不思議なくらいだったよね。だから、私たちも半分“同性”だと思って接していたくらいだし」

「まさか莉緒、宮嶋のこと?」

 信じられないと言った顔で、千鶴が私を見る。変に誤解されると、宮嶋君にも迷惑がかかりそう。ここはお互いのためと思って、きっぱり否定した。

「違うから! とにかく、部活のことはね……一度始めると、最後までやらないと気が済まないっていうか。簡単に諦(あきら)められない性格だったりするわけよ。だから、ね」

 それ以上は何も言えなかった。

 パイロットの資格を取りたいだとか、子供の頃に搭乗した時の感動、その想いを話したら2人はどんな顔をするだろう。たかが部活に、何をそんなに熱くなることがあるのかと、呆(あき)れるだろうか。

 部活で何もできなかった情けなさに加えて、自分が何をしたいのか、何に夢中になって目標としているのか。胸を張って堂々と言えないことが情けない。

自分が信じているもの

追いかけているもの

 それを口にするのが怖いのは、自分に自信がないから。相手にどう思われるのか気にしているから躊躇(ためら)うんだ。恥ずかしいと思われることなんて、何もしていないのに――

「色々と、難しいよね……」

 もどかしさを味わいながら、再び溜息がもれる。シチューに沈んだスプーンは、相変わらずかき混ぜるだけだった。

第5回

❉❉❉❉

 

『すげぇー!』

 傍で見学していた小学校三年生の男の子たちが、バーナーの点検作業中に吹き上がる炎を見上げて声を揃(そろ)えた。

 ある夏休みの日曜日。熱気球の面白さを知ってもらうことを目的に、熱気球部は係留飛行の搭乗体験のボランティアに来ていた。

 場所は小学校のグラウンド。風はとても穏やか、空は澄んだ青。それをいっそう惹(ひ)き立てるのは蝉たちの大合唱。

 天気良好、夏真っ盛りのBGMをバックに、空からの景色も抜群。まさに飛行日和だ。ただ問題は――

「ねぇ、お兄ちゃん。これ何?」

「えっと……インフレーターだよ」

 訊ねられた笠原さんは困った様子で、少し突慳貪(つっけんどん)に返していた。

 もともと口下手というか、あまり多くを語るタイプではないだけに、反応が少々薄い。子供たちもどこか不満気。せめて笑顔が完璧なら乗り切れたかもしれない。無理して笑っているせいか、表情が完全に引きつっていた。遠くから見ていた私がハラハラしてしまった。

 子供たちと一緒に立ち上げの作業をするのが恒例なのだけれど、笠原さんをはじめ、部員のほとんどが子供たちにどう接していいのかわかっていない。

 何でも涼しい顔でこなし、弱点がなさそうな笠原さんが、あたふたしている姿を見たのは初めて。ある意味、新鮮だった。

 さすがに上条先生は「先生」が本職だけあって対応に慣れている。単なる高校生でしかない私たちには、無邪気(むじゃき)な子供たち全員を大人しくさせるのは至難の業。

「内野! 球皮広げる作業、頼む!」

 子供たちに熱気球の説明をしていた上条先生が、こちらに手を振った。まさかの指名に、心なしか緊張してしまった。先輩たちほどではないけれど、私も子供たちとどう接していいのか掴(つか)めず、手探り状態だった。

 それから間もなく。先生が子供たちに何か言ったらしく、20人近くの子供たちがわーっと、私のもとへ駆けてきた。逃げる間もなく取り囲まれて、期待の眼差しが一斉に集められた。

「よ、よし! これから球皮を広げるよ。皆、手伝ってくれる?」

「きゅうひ? お姉ちゃん、なにそれ?」

 坊主頭の男の子が、楽しそうにクケケッと笑って訊ねる。

「風船みたいに、大きく膨(ふく)らんでいる部分のことだよ。これを広げないと、いつまで経っても熱気球は飛ばせないからね。急いで広げちゃうよ」

「内野、俺も手伝うね」

「うん、ありがとう」

 加勢に来た宮嶋君と2人で、ワゴン車から球皮袋を降ろす。

 転がり落ちるように出てきた大きな球皮袋に、子供たちは「おまんじゅうだ!」とか「団子だ!」と大はしゃぎ。

 袋から球皮をグラウンドに引きずり出し、広げるところまでが子供たちとの共同作業作。あとはいつもの通り。

 子供たちの安全面を考慮して、今回の操縦は上条先生。笠原さんはその補佐。数名ずつ、子供たちを順番に乗せている間、私と宮嶋君は待っている子供たちの遊び相手。

 戦隊ごっこに、鬼ごっこ。大抵、私と宮嶋君は悪の手先か鬼の役だった。そうして時間はあっという間に過ぎ、全ての子供たちが乗り終えた頃には、午前11時を過ぎていた。

「はぁ……疲れた」

 深めの溜息をつきながら、グラウンドの隅に設置されたブランコに腰かけた。ギィッと錆びついた音を響かせて、鎖がジャララと揺れる。

 熱気球の片付けも終わり、今は小休憩。あと30分もすれば昼食の準備が始まる。先生の話によれば、今日は子供たちと一緒に屋外焼き肉だそうだ。宮嶋君曰(いわ)く、夏の屋外焼き肉は定番らしい。

「この真夏日に、外で焼き肉ねぇ……」

 鎖に寄りかかりながら、ぼんやりと空を見上げた。

 大きな柏の木に囲まれたこの場所は、陽射しが程よく遮られ、心なしか風がひんやりと冷えている。一歩でもここから出れば、真夏の陽射しが容赦(ようしゃ)なく降り注ぐ。

 まだ午前中だというのに、すでに気温は30度近く。今年の最高気温を上回ると、天気予報でも言っていたから、もう少し暑くなるかもしれない。

 焼き肉を目の前にして、ちゃんと食欲が湧くだろうか。心配を余所に、先輩たちは子供たちと一緒に鬼ごっこをしていた。

 グラウンドに響く無邪気(むじゃき)な声を聞きながら、そっと目を閉じた。疲れているのか、そのまま眠ってしまいそうになる。うるさいと思っていた蝉の声も、心地よいとさえ思えた。

「内野、いたいた!」

 その声に、意識が引き戻された。

 目を開けると、そこには宮嶋君が立っていた。きょとんとする私に、ニッと笑いかけて両手を突き出した。手にはアイスの袋が握られていた。

「先生からの差入れだって。苺とオレンジ、どっちがいい?」

「あ、ありがとう。選んでいいの?」

「いいよ」

「じゃあ、苺味」

 受け取った矢先、宮嶋君は隣のブランコに座った。渡し終えたらいなくなると思っていたのに。まさか一緒に食べるつもりなのだろうか。

 そっと、横目で様子を窺(うかが)った。やはりここで食べるらしく、宮嶋君はさっそく封を開け始める。「いただきます」なんて律儀に手を合わせて、早々に一口目を口にした。私も急かされるように袋を開けた。

「んー、美味い。内野の苺味、どう?」

「うん、美味しいよ。苺味って、ハズレないよね。宮嶋君のオレンジは?」

「美味い。日本のミカンじゃなくて、外国のオレンジって感じで」

「何それ」

 思わず、フッと吹き出してしまった。

「味とか種類? ハッサクとかミカンっていうより、マンダリンオレンジかな」

「マーマレードに使うような?」

「そう、そんな感じ」

 部活に入ってから数ヶ月。部活以外のことで、宮嶋君とまともに会話をしたのはこれが初めてだった。同じクラスではあるけれど席は離れているし、部活のこと以外の会話をするほど親しい仲でもなかったから。

 この感覚は、何なんだろう。まるでずっと前から知り合いだったみたいに、違和感もなく自然と話せている。

 以前から、宮嶋君は不思議な空気を持っている気がしていたけれど、それは間違いではなかった。気まずさも居心地の悪さも、そこにはなかった。

 会話が途切れ、食べることに没頭していた時だった。シャリシャリとアイスを噛(か)み砕く音と、蝉の声に混じって、誰かが呼んでいる声が微かに聞こえた。

第6回

 子供たちと一緒に鬼ごっこをしている先輩が、私と宮嶋君に向って手招きをしている。全てを聞き取ることはできなかったけれど、どうやら人数が足りないから私と宮嶋君も参加しろと言っているらしい。

 宮嶋君は大きく手を振り返してから、残っていたアイスをあっという間に平らげた。

「ごちそうさま。内野も行かない?」

「鬼ごっこ? 私はいいよ。もう少し、ここで休んでるから」

「そう? じゃあ、俺は参加してくるよ」

 ヒラヒラと手を振りながら、宮嶋君は子供たちのもとへ駆けて行く。その姿を眺めていると――

「内野さんも、混ざってきたらどうだい?」

 そこへやってきたのは、笠原さんのお父さん。土日の部活には必ず足を運んで、部の活動写真を撮ってくれている。熱気球部では有名な名物お父さんだった。

 本業は畑作農家。その傍ら陶芸家としても活動していて、時々、個展を開いたりもしているらしい。

 三ヶ月くらい前だっただろうか。廃校になった小学校で、熱気球の写真と、それをイメージした陶芸作品の個展を開いたと、地方紙の新聞に取り上げられているのを見た覚えがある。

「行かないの?」

「ちょっと疲れちゃって。そうだ、今日は良い写真撮れました?」

「もちろん。今日は素敵な写真が撮れたよ」

 そう言って、さっきまで宮嶋君が座っていたブランコに腰掛けた。首に下げている一眼レフのデジタルカメラを私に差し出し、保存されているデータを見せてくれた。

 そこに映っていたのは私。子供たちと球皮袋を運んだ、あの時の写真だった。自分で見るのも恥ずかしくなるくらい、そこにいる私は満面の笑顔だった。

「素敵でしょ? こういう笑顔はね、みんなが居る場所で、もっとたくさん見せた方がいいものだと思うんだよ」

「こんな日陰のブランコにいたら、駄目ですよね」

 性格とは厄介で、持って生まれたものはそう簡単には変えられない。歩み寄りたくても二の足を踏んで、そうしている内に踏み出すことすら怖くなってしまう。傷つくくらいならこのままでいい。そしていつも、前に進めなくなっている。

「私、宮嶋君が羨ましいです。あっという間に輪の中にとけ込んでしまうじゃないですか? 何の違和感もなく。ずっと前からそこに居たみたいに」

「あれは天性のものだろうね。相手を警戒させない、柔らかい雰囲気は意識して出せるものではないからね。でも、真似くらいならできるかもしれないね。内野さんもやってみたらどうだい?」

「無理ですよ。そういう性格じゃないですから。でも、宮嶋君みたいに誰とでも接することができたら楽しいだろうなって、見ていると時々思うんです」

「そう思っているなら大丈夫。いつかちゃんと、行動を起こせる時が必ず来るよ」

 何の根拠があるのだろうか。怪訝(けげん)な顔を向ける私に、おじさんはニッと笑って、グラウンドの方へ視線を向けた。

「うちの息子、凌太のことだけど。内野さんには、息子はどんなふうに見える?」

「笠原さんですか?」

 グラウンドで子供たちと走り回っている笠原さんを目で追った。午前中まではぎこちなかったのに、今はごく自然に笑っている。子供たちの無邪気さが移ったのではないか、そう思うくらい楽しそうで、見ている私もつい含み笑ってしまった。

「口数は少ないですけど、その分、やるべきことは行動で示すというか。ちょっとやそっとのことじゃ折れない、強い人ってイメージです。身体的な面ではなくて、内面的な強さでしょうか」

「そう見えるなら、親としては嬉しい限りだね。でもね、凌太はああ見えても繊細というか、考え過ぎてしまうところがあって。中学の時、半年ほど学校に行かなくなった時期があったんだ」

「そ、そうなんですか?」

 信じられない。驚き過ぎて、発した声は見事に裏返った。

 笠原さんは「よほどのことが無い限りは休まない」と入学前から宣言していたらしく、その言葉通り、今まで一度も学校を休んだことがないと、上条先生が言っていた。

 熱があって体調が優れないのに、平然とした顔で登校するくらい根性がある笠原さんに、そんな時期があったなんて知らなかった。

 半年の間であっても、友達や外の人たちとの接触を断っていれば、誰だって壁を作ってしまう。意識的にそれを隠していたとしても、一度できた壁を壊すのは、他者であっても本人であっても難しい。でも笠原さんからは、そんな雰囲気は少しも感じなかった。

「もしかして。私のこと、からかってます?」

「いや、本当のことなんだよ。僕も、あの時間が嘘だったんじゃないかって、時々思うんだけどね――あっ、内野さん。溶けてる、溶けてる!」

 おじさんは私を見るなり指差した。話をするのに夢中になって、持っていたアイスのことをすっかり忘れていた。

 暑さで溶けたアイスは、いつの間にか指先を伝って地面に苺味のミルク溜まりを作っていた。私は慌てて溶けたアイスを食べた。

「それで……笠原さんは、どうして学校に行かなくなっちゃったんですか?」

「僕にも未だにわからないんだ。聞いても“今はもうどうでもいいことだ”って、話してくれないし」

「嫌なことでもあったんでしょうか?」

「どうなんだろうね。親の僕から見ても成績は良かったし、勉強が嫌いだったわけでもないみたいなんだ」

「苦手な友達でもいたとか?」

 その問いに、おじさんは「うーん」と唸(うな)りながら首を傾(かし)げた。

「僕もそれを考えていたんだけどね。でも、学校へ行かなくなってから、代わるがわる違う子が毎日家に遊びに来ていたし、凌太も楽しそうにしていたからね。きっと“何となく”行きたくなくなったんだと思う。小さい頃からそういうところがあったから」

「特に理由はないってことですか?」

「おそらく、としか言いようがないかな」

 私には、何となくわかる気がした。

 本当に時々。不安や焦りみたいなものが腹の奥底にあって、それが何なのか、どうしてそれが気になるのか、いくら考えても明確な答えが見つけられない時がある。

 悩みながら答えを探している内に、何もかもがどうでもよくなってしまう瞬間がある。考えることすら面倒になって、気力がどこかへ行ってしまう。きっと、笠原さんはそれを感じた瞬間があったのかもしれない。

「もしかしたら、凌太はこのままなのかなって覚悟していたよ。でも凌太の中で、変わらなければ駄目だと思った瞬間があったんだろうね。ある日突然、熱気球のパイロット免許が取りたいから、上高を受験するって言い出したんだよ」

「本当、突然ですね」

「本当にね」

 苦笑いを浮かべながらも、笠原さんを見つめる目は優しくて、安堵(あんど)しているように見えた。

「きっとね、何かを掴(つか)みたいと思った時は、待っているだけじゃ駄目なんだよ。自分の足で向かって、自分の手を伸ばして掴まないといけない」

「自分の手を伸ばして……」

 呪文を唱えるみたいに、私はその言葉をくり返した。その度に、胸がズキズキと痛んだ。

 私は、自分が変わるために歩くのではなく、無意識の内に周りが変わるのを待っていた。そうしている方が楽だから。でも、それではいつまで経っても、何も変わらない。

 自分が変わろうとすることが私には必要不可欠。おじさんはそれを伝えたかったのだろう。ただ、言葉で言うほど、それは簡単なことではない。

 必要なのは踏み出す勇気。引っ込み思案な人間にとっては、この一歩が途轍(とてつ)もなく大きなものに感じた。

「おじさん。私も、変わることってできるでしょうか?」

「変わりたいと思っている人は必ず変われるものだよ。変わらない人は、変わりたいとすら考えないからね」

 私は残りのアイスを強引に口へ押し込んだ。とたんに、キーンッと痺れるような痛みが頭を駆け抜ける。眉間のあたりを指先で叩きながら、ブランコから立ち上がった。

「私、ちょっと走ってきます」

「うん、行っておいで」

 アイスの棒を袋で包み、それをポケットに押し込む。よしっと、自分に気合を入れて、走り回って遊んでいる子供たちのもとへ駆け出した。

第7回

❉❉❉❉  Ⅲ  ❉❉❉❉

 

 2年目の春がやってきた。

 入学式を終え、各部活が新入部員の勧誘で慌(あわ)ただしく動いていた4月半ばの土曜日。【Pu/t】のことで話があると、部活終わりに職員室へ呼び出された。

「1年間、内野を見てきた上での結果だ」

「……わかりました」

 【Pu/t】として指導するか否か。上条先生からその答えを告げられた私は、そう答えることしかできなかった。

“登録させるのは難しい”――それが先生の出した結果だった。

 私同様に、パイロットの資格取得を目指していた宮嶋君を【Pu/t】に選んだと先生は言っていたけれど、その声も途中から耳に入らなかった。

 言葉が耳の奥で弾けて、頭の中から消えていく。寒気にも似た感覚が背筋を走って、心臓の動きを鈍(にぶ)らせる。一瞬、止まってしまったのではないかと錯覚するほどだった。

 どうして駄目だったのか、何が悪かったのか。宮嶋君が選ばれて、私が選ばれなかった違いは何なのか。

 聞きたいことはあったけれど、それを聞く勇気も今はない。ただ「ありがとうございました」と言って、その場から逃げることしかできなかった。

「……駄目だ。少し、落ち着かなきゃ」

 廊下で吐き出した声は震えていた。

 自分でもはっきりとわかるくらいに動揺していた。駄目だった時のために心の準備はしていたつもりだったけれど、想像以上に落ち込んでいた。

 このまま考え続けていたら、それこそ立ち直れなくなる。落ち着くまで、別のことで紛らわそう。そう思うと無性に墨の匂いが恋しくなって、書道部が部室として使っている2階の多目的室へ向かった。

 併設されている物品庫から道具を持って多目的室に入り、並んでいる机の一部を移動させて、書道ができるスペースを作る。

 床に広げたのは全紙用の大きな下敷き。小柄な女の子なら、2人くらいは余裕で寝転がることができる。そこに自分よりも大きな全紙をそっと乗せ、自らもその上に正座した。

 硯(すずり)に墨も入れた。

筆に墨も染み込ませた。

 あとは筆を走らせるだけ。

 ただそれだけなのに。腕をつき、下を向いたとたんに視界がグニャリと滲んでぼやける。鼻の奥がツンと痛くなって、ポタタッ、タッタッと、大きな音をたてて、紙の上に涙が落ちた。

「どうってことはないのに、こんなこと……」

 言葉を口にすればするほど、悔しさや怒りがこみ上げてくる。

 どうして駄目だったの?

 何がいけなかったの?

 そんなことはわかりきっている。私が【Pu/t】になるには未熟だった。ただそれだけだ。

 大人でさえ取得が難しいパイロットの資格試験を、心身ともに未熟な高校生の私が挑戦しようというのだ。先生の目が厳しくなるのは当然。

 今は駄目でも、二度とパイロットの資格が取得できないわけではない。高校を卒業して社会人になってから、どこかのチームに所属して、それから受けることだってできる。道が閉ざされたわけではないのだから、泣く必要なんてどこにもないのに――。

 わかっていても、悔しいものは悔しい。

 今でなければ、この時でなければ意味がない。高校3年間という短い期間の中で手にする。初めてのフリーフライトで空から景色を見たあの瞬間、自分でも驚くほどに手にしたいと思った願いだった。それが叶わないと思うと、自分では涙を押さえることができなかった。

 この声が誰かに聞こえてしまうかもしれない。必死に声を押し殺していたけれど、我慢するほど涙は溢(あふ)れる。いっそのこと、大声で泣きじゃくってしまおうか。そんな思いに駆られた、その時――突然、教室のドアが勢いよく開いた。

 ハッとして顔を上げると、気まずそうな表情を顔に貼りつけた笠原さんが入口に立っていた。血の気がサーッと引いて行くような、あるいは心地よく寝ていたところを叩き起されたような。とにかく、驚き過ぎて涙がぴたりと止まった。

 互いに言葉も交わさず、数秒ほど居心地の悪い空気が流れた。どういう顔をしていいのかわからず、私は視線を泳がせた。

「あ、あの……何か」

「……忘れ物、渡そうと思って」

 話を切り出した私に、笠原さんは手にしていたもの差し出した。それは私の上着だった。

 片付けをしている内に暑くなって脱ぎ、ワゴン車の助手席に置いたままだったことを今になって思い出した。

 慌てて立ち上がったものの、いつの間にか足が痺れていたらしく、思うように歩けない。フラつきながら辿り着き、笠原さんから上着を受け取った。

「す、すみませんでした」

「いや、いいけどさ」

「……じゃあ、私はこれで」

「おいおい、何か言うことあるだろ」

 背中を向けたとたん、笠原さんが呆れたように吹き出した。

 言いたいことはわかる。どうして泣いていたのか話せというのだろう。でも、今は説明できる状態ではないし、できれば放っておいてほしい。私は眉間(みけん)にシワを寄せ、半身だけ振り返った。

「何かって、何でしょう……」

「ここまで気まずい現場見せておいて、説明ナシ?」

「……」

「まぁ、話したくないなら別にいいけど」

「あっ、ちょっと待ってください!」

 帰ろうとする笠原さんを慌てて呼び止めた。

 そういう態度を取られると、妙に寂しくなる。説明はしたくないし、今は一人になりたい。その反面、誰かに聞いてほしいというのも本音だった。

「ちょっとご相談が……」

 結局、私は笠原さんに全てを話すことにした。おそらく私の性格上、独りで溜め込んでいると抜け出せなくなってしまうから。

 先生から結果を告げられたこと、私ではなく宮嶋君が【Pu/t】に選ばれたこと。そして号泣に至った経緯を話した。

 私が話し終わるまで、笠原さんは何も言わず、ただ黙って聞いてくれた。

 最初は話すだけで涙ぐんでしまって、所々言葉に詰まってしまった。それでも笠原さんは口を閉ざしたまま、真っ直ぐに私を見て相槌(あいづち)を打ってくれるだけ。そのおかげで、悔しさや悲しさは和らいだ気がする。

「宮嶋君が選ばれたのは納得できるんです。でも自分のことになると、納得がいかなくて……笠原さんから見ても、私、やっぱり駄目ですか?」

「あぁ。俺が先生の立場でも、同じ答えだったと思う」

 目の前で胡坐(あぐら)をかいて座っている笠原さんは、清々しいほどの即答だった。

 遠回しな言い方も、誤魔化すような言葉も使わないところは笠原さんらしい。全紙の上で正座をしていた私は、おかしさ半分、悲しさ半分で項垂(うなだ)れた。

「具体的に、何がいけないと思います?」

「俺も人に言えるほど、できているとは言えないけど。多分、先生が内野に足りないと判断したのは、気配りと観察力だと思う」

「気配りと観察力……」

「内野って、一つのことに集中すると、周りが見えなくなるところあるだろ?」

 言われたとたん、去年の失敗が蘇った。中心になって作業しろとの指示で、頭が真っ白になった、あの記憶。1年経ったというのに、今思い出しても苦い記憶のままだ。

 気をつけていたつもりでも、染みついた思考や行動パターンは、常に意識していない限りそう簡単には直せない。気づけば夢中になって、言われるまで気づかないことが多い。

「それって、致命的ですね……」

「パイロットに必要なのは、全体を見て把握して、冷静に物事を判断できる力なんだと思う。だから、一つのことしか見えていない状態だと、危険に繋(つな)がる」

 だから先生は私を【Pu/t】にするには未熟だと判断した。

 泣いてばかりでは見えなかった答えも、こうして冷静になって、一歩下がった場所から見渡せば簡単に見つけることができる。やはり私が選ばれなかったのは当然だったわけだ。

「気配りと観察力……今からでも遅くないなら、身につけたいところです」

「なぁ、内野」

「何ですか?」

「お前さ、家で手伝いとかやってないだろ」

 その言葉には耳が痛かった。

 実のところ、今の今まで、手伝いと呼べる手伝いはしていない気がする。母にはそのことで小言を言われてこともあったけれど、勉強が、塾が、習い事が――なんて、そんな理由を作って逃げていた時もあった。いや、むしろ今も逃げているかもしれない。

「ど、どうしてそう思うんですか?」

「行動、見ていたらわかる。あぁ、こいつ何もやってないなって」

「あははっ……」

 部活での行動しか見られていないはずなのに、何をどう見れば、それがわかるというのか。“できないオーラ”でも出てしまっているのかもしれない。なんだか急に恥ずかしくなってしまった。

「これは、父さんの受け売りだけど。気配りできるようになりたかったら、部活をやってるんじゃなくて、自分が働いているって置き換えて考えろってさ」

「部活で、ですか?」

「働くってことは“はた(傍)”を“らく(楽)”にすることなんだって。相手が楽に仕事をするには、自分がどうすればいいのか。観察していれば、何も考えなくても自然と動けるようになる」

 そう言うと、笠原さんは立ち上がって私を見下ろした。

「とりあえず。内野は今日、帰ったら家の手伝いをすること。掃除でも洗濯でも料理でも、何でもいい」

「は、はい。あっ、でも、働くとか気配りに何の関係が……?」

「今は言ってもわからないと思うから、とにかく手伝え。それが終わったら俺に報告すること」

 それだけ言って笠原さんは教室を出て行ってしまった。残された私は、静まり返る教室でしばらく座り込んでいた。

第8回

❉❉❉❉

 

 雪が降るかもしれない。

 キッチンで昼食の準備をしていた母に「家事を手伝いたい」と話したとたん、そう言って笑い飛ばされてしまった。

「どういう風の吹き回しなの?」

 じゃがいもの皮をむいている私に母が訊ねた。横目でちらりと様子を伺えば、興味深げに私を見つめる母の顔があった。

「えっと、ほら。私も高校生だし。何もしないのも、ね」

「あら、やっと気づいたのね」

「うん、まぁ、そんなところかな」

 笠原さんに手伝えと言われたからだなんて、口が裂けても言えない。とりあえず、もっともらしいことを言って誤魔化した。

「なんだか、ずいぶん歪(いびつ)ね」

「皮、むいてるだけなんだけどね……」

 たかが皮むき、されど皮むき。いくら皮むき器を使っていようとも、普段からやっていない人間が皮をむくとデコボコになるものらしい。

“女の子なんだから、今のうちにやっておかないと後で大変”

 小さい頃から耳にタコができるほど母に言われてきた言葉だった。勉強が、習い事が、と言い訳して回避してきたツケが回ってきたのかもしれない。こんなことなら、ちゃんと手伝っておけばよかった。

「これ、大丈夫?」

「煮込んでしまえばわからないでしょ」

 と、母はクスクス含み笑った。

 今日の昼食は、祖父のリクエストでハヤシライス。CMで流れていたのを見て食べたくなったらしい。

 カレーやシチュー同様、野菜は煮込んでしまうし、ルウでコーティングされてしまう。多少デコボコでもわかりはしない――と、気休め程度に開き直っておこう。

 他の野菜も皮をむき終え、食感が残るよう少し大きめに切り分けていく。すると、まな板の上には野菜の山ができあがる。作業がしづらくなるから、別の場所へ移さなければ。鍋か、それともボウルにしようか。

「何か、入れ物――」

 食器棚の方へ振り返ったとたん、目の前にステンレスのボウルが差し出された。それを手にした母がニッコリと笑った。

「はい、これ使いなさい」

「あ、ありがとう」

 受け取って、再び調理台に向かった。

 野菜をまな板からボウルへ移し、次は肉の番。確か冷蔵庫に入れたままだったはず。そう思っていた矢先。まな板の前にポンと、肉の入ったパックが置かれ、ガス台の上に鍋が用意される。また母だ。

 ありがとう――その言葉を受け取る前に、母はさっさと次の作業を進めてしまう。サラダを用意したり、スープの準備をしたり。私が準備をしている間、母も同時進行で別の準備をしていたはずなのに。もしかして、私の行動を見ながら作業をしていたのだろうか。

 その時、ゾクゾクと、何かが背筋を駆け上がる感覚を覚えた。

 わかりそうで、わからないような。喉の辺りか、あるいは鳩尾(みぞおち)の辺りまで来ているのに、それがなかなか上がってこなくて、もどかしい感覚。何だろう、今わかりそうだった。

 シンクでレタスを洗っている母の姿をまじまじと見つめた。急にハッと顔を上げ、辺りを見回すような仕草をした。

「お母さん、これ」

 とっさに、私が取って差し出したのは笊。母はそこに洗ったレタスを入れた。

「あら、ありがとう」

「うん」

 微笑んだ母を見た瞬間、部活での光景を思い出していた。

 先生がバスケットの上に乗ってバーナーを取りつけ、笠原さんはその傍でフレームのカバーを手に待機している光景だ。あの時、先生が手を出せば、笠原さんはすぐにそれを手渡していた。交わされる言葉はほんのわずかだった。

 

―― 多分、先生が内野に足りないと判断したのは、気配りと観察力だと思う

 

 全てではない。けれど、分かった気がした。

 気を配るということは、同時に観察するということ。今、あの人は何を考え、何を必要としているのか。これは相手を思っていなければ決してできないことだ。

「……お母さん、ちょっと部屋に行ってもいい?」

「うん、いいわよ」

「すぐ、戻ってくるから」

 煮込んで火を通している間に、私は一度部屋に戻った。もちろん、笠原さんに連絡を取るため。

 気づいたこと、わかりかけたことを話さなければ。そう思って携帯を手にしたものの、画面を睨(にら)みつけたまま電話できずに躊躇(ちゅうちょ)していた。

「考えてみたら、笠原さんに電話するのって初めてなんだよね……」

 一応、全部員の番号は登録しているけれど、かけたことのない人がほとんど。

 部活の連絡はだいたい宮嶋君から回ってくるし、私も宮嶋君を頼っていたから、かける機会はほとんどなかった。

「学校で話せばいいかな……でも、報告しろって言われちゃったし」

 学校で話した時は特に何とも思わなかったけれど、いざ携帯を手にすると緊張する。

 思い切って通話ボタンを押し、おずおずと耳に押し当てた。コール音が4回ほど鳴ったところで、ガチャッと繋(つな)がる。笠原さんの声よりも先に聞こえたのは、ゴーッと響く雑音。どうやら外にいるらしい。

『もしもし』

 少し遅れて、突慳貪ないつもの声がした。私は小さく息を吸い込んで、携帯を握る手に力を込めた。

「う、内野です。今、大丈夫ですか?」

『あぁ、ちょっと待って』

 すると、声の合間に聞こえていた雑音が消えた。代わりに聞こえたのは「――とかち4号の改札中です」というアナウンス。笠原さんが駅の中に入ったらしい。

「かけ直した方がいいですか?」

『いや、大丈夫。それで、何かあった?』

「学校で笠原さんに言われたこと、実行したので。そのご報告を」

『――あぁ』

 数秒ほど間を置いて、思い出したような返事をする。自分で報告しろと言ったのに、今の今まで忘れていたような口振りだった。

『どうだった?』

「相手のこと、ちゃんと見ていないと気を配ることなんてできないんですね。私にそれが欠けていたこと、やっとわかりました。おかげで今、色々後悔してます」

 ドアにもたれたまま、ずるずると滑り落ちるように、その場に座り込んだ。

 もっと早く、気づけていれば結果は違っていたかもしれない。そう思うと、肩の辺りが重くなった気がした。

『そこまでわかったなら、あとは“自分がどうしたいか”だけだな』

「どうしたいか……?」

『後悔して落ち込むのは誰でもできるってこと。重要なのは、その後の行動だと思うよ』

 

―― 5番線に、列車が到着いたします。

 

 再び、背後でアナウンスが響いた。それに耳を傾けているのか、笠原さんの言葉が一瞬途切れた。

『とにかく、腐っていじけるか、受け入れて進むか。ここから先は、内野自身が選ぶしかない。どうしたいのか、自分のことだからわかるだろうし。まぁ、頑張れ』

「えっ、笠原さんっ!」

 名前を呼んだ時には、すでに通話は切れていた。暗くなった画面をしばらく見つめた。

 私はこれから、どうしたいのか。

 笠原さんに言われた言葉が頭の中でぐるぐると駆け回る。その問いかけが、諦(あきら)めの悪い厄介な性格を叩き起こしたのは間違いなかった。

 部活を辞めない限り、私にはあと2年という時間が残されている。

 腐っていじけるか、受け入れて進むか――後悔した気持ちを引きずったまま2年間を過ごすのか、それとも気持ちを切り替えて過ごすのか。それは、選択肢によって心のありかたが違うということ。悪い方にも良い方にも、考え方によって大きく変わることだ。

「私が、どうしたいのか。どうしたいのか……」

 何度も、呪文のようにそれをくり返した。その言葉から導き出される答えは、どうあっても同じ答えばかり。もう、私にはそれしかなかった。腐るのも、受け入れるのも嫌だ。

 部屋を飛び出し、私は階段を駆け下りた。リビングのソファに置いてあった上着を手に、そのまま玄関へと走った。

「莉緒、どこ行くの? お昼ご飯、そろそろできるわよ?」

 私に気づいた母が、リビングの入口から顔を出した。

 今は昼食を食べている場合ではない。呼ばれて振り返ったものの、すぐに踵(きびす)を返した。勢い余って裸足で玄関に下りしまったけれど、この際かまうものか。少し乱暴に靴を履きながら上着を羽織った。

「ちょ、ちょっと、学校に忘れ物しちゃって。取りに行ってくるね」

「ご飯食べてからでもいいでしょ?」

「そうだけど……すぐ戻るから!」

「ちょっと、莉緒!」

 呼び止める母の言葉を振り切って、私は家を飛び出した。

第9回

 

「失礼します!」

 勢いをつけて飛び込むように、職員のドアを力いっぱい押し開けた。

 中に踏み込んだところで、給湯室からカップラーメンを手にした上条先生と遭遇。突然飛び込んできた私に、先生は後ろへ飛び退いて驚いていた。

「内野、どうした!?」

「先生にお願いがあって戻ってきました」

 呼吸を整えながら、職員室内を見渡した。日曜日ということもあって、職員室に他の先生の姿はなかった。

「お昼ご飯、終ってからでいいので……聞いてもらえますか?」

「あ、あぁ、わかった。とりあえず、座るか」

 先生に促され、職員室の隅に置かれている年季の入ったソファへ移動した。

 私は2人掛けの方、先生はガラスのテーブルを挟んだ向かいにある、一人掛けのソファに座った。スプリングが壊れているらしく、先生が座ったとたんにギギッと音がした。

「そんなに慌ててどうした? 何かあったのか?」

 そう訊ねながら、先生は持っていたカップラーメンをテーブルに置いた。振動で中のスープが少しこぼれて手にかかったらしく、先生は「熱っ!」と慌てて手を離した。

「だ、大丈夫ですか?」

「ん? あぁ、ごめん。大丈夫、大丈夫。それで、話したいことって?」

「えっと、【Pu/t】のことなんですけど……私、諦(あきら)めたくないんです。足りない部分はこれから何とかします。だから、【Pu/t】に登録させてください!」

 言った、言ってしまった。これでもう、後戻りはできない。そう思うと心臓が張り裂けそうだった。

 私には、もうこれしかなかった。こうだと決めたら最後まで貫き通す。わがままだし、無茶を言っていることもわかっている。未熟なことも重々承知の上。それでも、諦(あきら)めて後悔するよりはずっとマシだ。

 私にできることは、現状を受け入れて、強引にでも前に進むことだけだった。

「先生、お願いします!」

「んー、そうきたか……」

 身を乗り出す私を見つめながら、先生は口を真一文字に結ぶ。小さく唸りながら、困ったように頭を掻いた。

「内野の気持ちは十分わかっているつもりだよ。部活内外での内野を、1年間見てきた上での判断で――」

「嫌です」

「い、嫌って」

「ここで諦(あきら)めたら、何をやっても駄目になってしまう気がするんです! だから……」

 こんな時、言葉ほど邪魔なものはない。

 初めてフリーフライトを体験したあの時。空の上で感じた想いの全てを、言葉で伝える自信がない。どんなに強い想いでも、必死になって口にするほど、安っぽくて嘘みたいに聞こえてしまう気がして怖かった。

「先生、お願いしますっ」

 私は頭を下げた。今、先生はどんな顔をしているだろう。呆れているのか、怒っているのか。沈黙が怖くて、ぎゅっと目を閉じた。

 しばらくして聞こえてきたのは、堪えきれなくなって吹き出す声。顔を上げると、先生が肩を揺らして笑っていた。

「な、何がおかしいんですかっ」

「いやぁ、ごめん。こんな頼みごとをしてきたのは内野が初めてだったからな」

「私、真剣なんですけど……」

「わかってるよ。真剣じゃなかったら、こんな行動は起こさないだろうから」

 先生は含み笑いながら、カップラーメンの蓋(ふた)を開け、乗せていた割りばしで軽く混ぜ始める。話している内に麺がのびてしまったらしく、カップの中から溢れ出そうになっている。しまったという顔をして、再び蓋(ふた)を閉じた。

「内野を【Pu/t】に選ぶかどうか、正直言うと迷ったんだ。多少未熟な点はあるけど、真面目だし、熱意は伝わっていたからね」

「それでも、決断するには足りない点が多かったんですよね?」

 先生は少し躊躇(ためら)うように、一度だけ頷いた。

「【Pu/t】に選んだからには、俺は指導していかなければならないし、個別に記録もつけなきゃならない。たくさん目がついているわけじゃないから、俺が指導できるのはせいぜい2人、多くて3人が限度。その3人目にいたのが内野だった」

「限度である3人目を抱えて指導するかどうか……だったんですね」

「これでも迷って、悩んで出した結果だったんだ。それをお前は――」

 どうしてくれんだと言わんばかりに、先生は溜息混じりに笑った。

「内野は、諦(あきら)めたくないんだな?」

「はい。あの時こうしていればよかったって、後悔したくないんです」

「んー……わかった。今回は特別に受け入れるよ」

「……えっ!」

 私は思わず立ち上がっていた。その拍子に、膝が硝子のテーブルに思いっきりぶつかった。あまりの痛さに息が詰まって、しばらく言葉が出てこなかった。

「だ、大丈夫かっ!?」

「へ、平気です……それより、さっきの。もしかして【Pu/t】に?」

「最初に言っておく。【Pu/t】になれたからといって、資格試験に受かるわけじゃないってことは覚えておくように。そこは自分の実力だからな。それでもよければの話だ」

 よろしくお願いします――そう言って頭を下げたつもりだったのに。

 緊張や焦り、不安や悔しさ。色々なものが消えて、緩(ゆる)んでホッとしたせいなのか。気づけば、小さな子供みたいに号泣していた。

第10回

❉❉❉❉  Ⅳ  ❉❉❉❉

 

 バスを降り、上士幌高校の校門前で足を止めた。見慣れた校舎を前に安堵(あんど)しながら、私は苦笑いと共に盛大な溜息をついた。

「なんだか、ようやく帰ってきたって感じがする……」

「内野、緊張してたからね」

 隣にいる宮嶋君は、会場にいた時の私でも思い出したのか、ククッと含み笑った。

 その日、私と宮嶋君は部活を休んで【Pu/t】の講習会に行っていた。これに参加するということは、念願の【Pu/t】になれたという証そのもの。気合を入れて会場へ向かったものの、着いたとたんに喜びは緊張に変わった。

 必要最低限のことはノートに書き取ったけれど、しっかり聞き取れていたのかどうか、正直言って自信がない。

「ただの講習会なんだから、緊張する理由がないのに」

「それはそうだけど……高校生なんて私と宮嶋君だけだったじゃない。他はみんな、大人の人ばっかり」

 部活同様、講習会の参加者が男性ばかりだったせいか、その場の雰囲気にのまれて何が何やら。意味もなく緊張してしまった。

 そんな私とは違い、宮嶋君は相変わらずあっけらかんとしていた。仕舞には「楽しかったね」なんて、はしゃいでいたくらいだ。

「宮嶋君は余裕そうだね。緊張したことないでしょ?」

「言われてみれば、そうかもしれない。まぁ、緊張し過ぎても良いことないからね。適度に力抜いた方が、良い結果出たりするし」

 この宮嶋という人物が未だによくわからない。突けば揺れるゼリーみたいな、常にのんびりフワフワした空気を纏(まと)っていて、発言もやる気があるのかないのか読み取れない。

 一見すると不器用にも思えるその言動も、おそらくは相手を欺(あざむ)いているだけ。勉強も運動も、そして部活も。何かを始めれば周りが気づかない内にサラッと、涼しい顔をして何でもやってのけてしまうのが、羨(うらや)ましくも腹立たしい。

「私、宮嶋君みたいに、どんなことがあっても緊張しない鉄のような心臓が欲しいわ」

「んー。正直言うと、俺もちょっとは緊張したんだよ?」

 宮嶋君はヘラヘラ笑いながら、いつになく弱気な言葉を口にした。

「今までは何となく、資格取れたらいいなって、漠然としてたでしょ。でも、講習会に出て、本当に試験受けるんだなって。やっと実感した気がする」

「そうだよね。嫌でも意識させられたよね」

 今まではずっと遠くにあって、肉眼でさえ見えるか定かではない目標を、無我夢中で追いかけていただけ。それが今日一日ではっきりと見えた。何が何でも、そこへ辿り着かなければ。そんな義務感みたいなものが、体のどこかに入り込んだ気がする。

「なんか、急に不安になってきちゃった……ねぇ、宮嶋君。これから何か予定ある?」

「特にないけど。それがどうかした?」

「立ち上げの手順、ちょっとだけ練習してから帰らない?」

「そんなの、いつもやってるでしょ」

 今更って顔をされて、少しだけムッとした。それを楽しむみたいにニヤついているから、同じようにニヤリと返した。

「そういう慣れがミスに繋(つな)がることもあるんだよ? 失敗は少ない方がいいでしょ? だからね、お願いっ」 

「んー……わかった。じゃあ、少しだけ」

 30分という約束で、私と宮嶋君は倉庫へ向かった。

 中は相変わらず薄暗くて、冷蔵庫みたいに冷えている。外気温との温度差に身を震わせながら、倉庫の奥に置かれたバスケットに駆け寄った。

 私と宮嶋君が講習会に行っている間、今日はどこを飛んだのだろう。どこに降りたのだろう。微かに漂っている土の匂いに、ふと、そんなことを想像した。

「内野は、どうしてパイロットになりたいって思ったの?」

 バスケットの中に入ろうとしたところで、宮嶋君は唐突に訊ねた。私は半分ほど身を乗り出したまま振り返った。

「どうしたの、急に」

「いや、何となく。そういう話、聞いたことなかったなぁと思ってね。ほら、内野ってここの出身じゃないし。どうしてかなって」

「……うん。きっかけは、色々あったんだけどね」

 バスケットに足をかけ、ぴょんと飛び越えるように中に入った。降り立った時の足音が倉庫内に反響して、微かに空気が震えたのがわかった。

「お父さんがこの町の出身でね。小さい頃からよく遊びに来ていたから、熱気球も乗ったことがあって。引っ越すことが決まって高校を探していた時に、この部活を見つけたの」

「それが理由?」

「ううん、まだその時は考えてもいなかったよ。せっかく十勝に住むんだから、他ではできないことしたいなって。入部するまでは、その程度の興味だったの」

 それ以上のものなんてなかった――はずだった。

 全てを変えたのは、あのフリーフライト。銀色の朝陽も、真っ白な雪原も、痛いほどに澄んだ空気も。ほんの数分足らずの間に、一瞬にして脳裏に焼きついて離れなくなった。

「どうでもよくなっちゃったんだよね」

「どうでも?」

「初めてフリーフライトを体験した時ね。景色を見て、色々悩んでいたことがね、本当にどうでもよくなっちゃったの。あの時ね。パイロットの資格、絶対に取りたいって思った」

「同じだね」

 きょとんとする私に、宮嶋君は気恥ずかしそうに笑った。

「俺も、内野と同じ。俺も上で景色見て、どうでもよくなった」

 そう言って、バスケットの縁についていた土埃(つちぼこり)を静かに払い落とした。

 宮嶋君が今、何を思い浮かべて、何を見ているのか。たったその一言でも、私には十分にわかった。きっと彼の脳裏では、バーナーの吹き上がる音が響いて、眼下に広がる雪原が浮かんでいるはず。もしかしたらデントコーン畑か、黄金色の小麦畑かもしれない。

「宮嶋君はいつ?」

「俺も中学3年の時。俺の父さん、パイロットの免許持ってるから、夏と冬はパイロット仲間と集まって飛ばしてるんだけどさ。俺が進路とか部活のことで色々悩んでた時に、父さんが乗ってみないかって。でも最初は拒否してた」

「どうして?」

「多分、悩み過ぎて疲れて、ストレス溜まってたのかな。パイロット仲間と楽しそうにしてる父さんを見るのが、面白くなくてさ。ずっと反抗して馬鹿にしてた。あんなの何が面白いんだって」

「それなのに、乗ったの?」

「うん、最終的には乗っちゃったね」

 自分のことなのに、まるで他人事みたいな口振りで言って腕を組んだ。

「そんなに馬鹿にするなら乗ってみろって言われて。じゃあ乗ってやるよって、勢いで何年か振りに乗ったんだ。そうしたら、見事にやられた」

「空から眺める景色、本当に綺麗だものね」

「うん。夏もいいけど、やっぱり冬が最高に綺麗だよね。一面真っ白でさ」

 きっと、自分の目で見た者にしかわからないかもしれない。

 あの衝撃にも似た感動も、キンッと張り詰めて痛いくらいに澄んだ空気も。あの場所で、あの高さで見るからこそ意味がある。

 地上からは決して見ることのできないあの光景は、きっと、迷って立ち止まった者を変えてくれる力があるのかもしれない。だから私も宮嶋君も、あの空の景色に惹(ひ)かれてしまったのだと思う。

「宮嶋君。パイロットの免許、絶対取ろうね」

「それは当然として、その前にやること山積みなんだけどね」

「そ、そうでした」

 飛ぶだけで済むならどんなに楽だろう。

 操縦テクニックから物理化学、航空法や気象学など、筆記試験に向けての勉強に加え、単独飛行に実技試験。

 上条先生曰(いわく)く、実技試験を担当する気球連盟のベテランパイロットは、鬼教官として恐れられている人物だという。本番はこれから。私と宮嶋君の前には課題が山積みだ。

第11回

❉❉❉❉

 

 その日のバーナーの音は、いつになく喧(やかま)しく聞こえた。

 焼き鳥やフランクフルトの焼ける匂いと、小さな子供たちがはしゃぐ声、輪唱のように鳴り響く無数のバーナーの音が、風に乗ってどこからともなく流れてくる。漂うお祭りムードにはしゃぐ部員たちの中で、ただ一人、私だけが苦々しい顔をしていた。

「ちょっと緊張してきた……」

「本当、内野って上がり症だよね」

 インフレーターに寄りかかって項垂(うなだ)れる私を見て、宮嶋君は他人事のように笑った。

 ここは高校のグラウンドでもなければ、どこかのジャガイモ畑でもない。上士幌町で毎年開催されている熱気球の大会【バルーン・フェスティバル】の会場に来ていた。もちろん、遊びに来たわけではない。今日、ここで行われる大会に参加するためだった。

「俺も内野も、今回は搭乗するわけじゃないんだからさ。緊張するのは笠原さんの役目だと思うけど?」

「それは、そうなんだけど。今日は部活とはわけが違うでしょ? 大会だし、競技なんだもん。余計なことして足引っ張ったらどうしようとか、考えちゃって……」

「そう思うからミスするんだよ?」

「わかってます」

 投げやりに返して、私はインフレーターを起動させた。ブロロロッとエンジンがかかって、プロペラがゆっくりと加速していく。球皮の開口部に風が流れるよう向きを調節している間、あちこちで立ち上げの準備をしている参加チームの熱気球が目に留まった。

 色はもちろん形状も様々で、変わったものだと、シャンパンのボトルに目と口、手足が生えたキャラクターものまである。

 全国各地から集まったその熱気球を操縦するのは、貫録のある年配のパイロットから大学生パイロットのお兄さんたち。その中でも、高校生の参加は上士幌高校だけだった。

 不利に思えるこの状況でも、数年前には上士幌高校熱気球部が優勝しているのだから、今年だって可能性は十分にある。その瞬間に立ち会うことができるとしたら、やはり地上ではなく空がいい。

「やっぱり、搭乗したかったなぁ」

 インフレーターの後ろで呟いたその言葉は、激しく回転するその渦に呑まれ、少しひび割れた音になって跳ね返ってくる。

 きっと誰にも聞こえていないだろうと思っていたのに、傍にいた宮嶋君には聞こえていたらしい。「俺も搭乗したかったよ」と、さり気なく呟いていた。

「宮嶋君も?」

「うん、まぁね」

「そうだよね。パイロット目指している身としては、ちょっと複雑な想いもあるよね」

 うんうんと、宮嶋君は何度も首を縦に振った。

 今日の大会にはチームとして参加しているものの、熱気球に搭乗するのは、パイロット免許を持つ上条先生と部長の笠原さん。残りの部員たちは飛び立った熱気球を追走して、地上から状況を伝えるのが役目。当然の配役ではあるけれど、せめて笠原さんの補佐として同乗したかった。

「部活とは状況が違うし、度胸もつくと思うんだよね」

「こういう雰囲気に慣れておいて損はないよね」

「だから、地上からっていうのがね……」

「そうは言っても、下からの指示も大切なんだからな」

 何の前触れもなく、会話に声が割り込んだ。

驚いて振り返ったとたん、そこに立っていた笠原さんにレシーバーを突きつけられた。条件反射で受け取ると、なぜか不敵な笑顔を返された。

「受け取ったな?」

「えっ。受け取りましたけど……」

「よし。連絡役は内野に決まり」

「えっ!?」

 押しつけられたレシーバーが鉛みたいに重く感じて、受け取った傍から宮嶋君に放り投げた。当然、宮嶋君がそれを素直に受け取ってくれるわけがない。意地悪そうなニヤケ顔で、逃げるなと言わんばかりに私につき返した。

「笠原さん、私、無理ですっ。ここにいるだけで緊張してるのに。間違ったこと言っちゃったら、もう泣きます」

「これも経験。内野、よろしくな」

 呆然とする私の肩を叩いて、笠原さんはさっさとバスケットに乗り込んでしまった。

 風を読んで操縦する笠原さんのプレッシャーに比べたら、地上での状況を伝える役目のほうがマシ。これといって特別なことはない。今まで部活でやってきたことをやればいい。わかっていても、一度膨らんだ緊張はなかなか萎んではくれない。

波を打って、左右にゆらゆらと揺れながら球皮が膨らむにつれて、私の緊張も少しずつ膨らんでいく。

 準備は着々と進み、他のチームは一足先に飛び立っていった。風の流れ、先に飛んで行った熱気球の動きを見ながら、上条先生と笠原さんは飛び立つタイミングを見計らっていた。

「先生、そろそろ行きましょうか」

「そうだな。ターゲットはどこにする?」

「この流れだと【A】がいいと思います」

「了解。いい風のながれが掴(つか)めるように、皆もサポート頼んだぞ」

 いよいよ競技が始まった。

 先生と笠原さんを乗せた熱気球は、フワリと、滑るように空へと飛び立った。上昇するその様子を見送り、すぐさまワゴン車に乗り込んで後を追った。

 レシーバーを託された私は、状況を見やすい助手席に座った。真後ろに乗った宮嶋君が、運転席と助手席の間から身を乗り出した。

「内野、ターゲットの【A】ってどこだっけ?」

「高校のグラウンドだよ。ここからだと、南の方角になるね」

 ポケットに折り畳んで入れていた地図を取り出し、宮嶋君に見えるよう広げた。

 大会と名がつくのだから、飛ばすだけで終わりではない。それぞれのチームが得点を競い、勝敗を決める競技。

 競技の種類はいくつかあって、離陸ポイントやターゲットの設定方法などで異なる。その中でも、今年の競技は【パイロットデグレアドゴール】。競技委員会が町の中に複数のターゲットを設置して、競技者はその中の一つ選んで飛んでいく。

 ターゲットには目印となる【×】印があり、競技者はマーカーと呼ばれる砂袋をその印に向かって投下する。より中心に近い場所へ投下することができたチームが優勝となる。

 操縦テクニックはもちろん、冷静に状況を判断できる力も必要不可欠。あとはターゲットへ向かう風を、上手く見つけられるかどうかにかかっていた。

「他のチーム、けっこう流されてるね」

 助手席のサイドミラーに、宮嶋君が窓の外を見上げている姿が映っている。私は窓を開け、同じように空を見上げた。

 部の熱気球よりも一足先に飛び立った他のチームは、各ターゲットとは大きく離れた方角へと流されていた。高校へ向かう途中も、定めたルートから外れてしまい、戻る風を見つけることができず、断念して着陸している熱気球をいくつか見かけた。

 風の流れは高さによって異なる。飛び立った直後は東へ向かって流れていても、その数メートル上空には逆方向へ流れる風の層がある。目に見えない風の流れを上手く見つけることが、この競技の勝敗を分けることになる。

「うちの部の気球は?」

「今のところは順調みたいだね」

 ターゲット【A】が設置された上士幌高校のグラウンドへ到着した私たちは、こちらに向かっている部の熱気球を不安な想いで見つめた。

「笠原さん、状況はどうですか?」

 ほんの少し震える手でスイッチを押し、レシーバーに向かって声をかけた。数秒ほど遅れてザザッと雑音が混じり、ゴォッとバーナーの音が聞こえた。

『今のところは、真っ直ぐポイントに向かってる』

「了解です」

『このまま進めそうだから、とりあえず状況見るよ』

 交わしたのは、たったそれだけ。すぐに通信が切れ、私と宮嶋君は空を見上げた。

 現在、ターゲットまで一直線の位置にいる。このまま風の流れが変わらなければ、確実に高得点を狙えるはず。今できることは、風の流れが予期せぬ方向へ吹かないことを祈るだけだった。

 それから15分ほど経った頃だった。

 ゆっくりと漂うように進んでいた部の熱気球は、マーカーを投下するため高度を下げ始めた。慎重に、確実に。逸(はや)る思いを押えつつ、見守っていた矢先のことだった。

 順調に真っ直ぐ向かってきていた熱気球が、高度を下げたとたんに東の方角へ流され、ターゲットから大きく逸れていく。

「内野、なんかマズイよね?」

 宮嶋君の声は、心なしか焦っていた。

 このまま進んでしまえば、戻れなくなる――私はすぐに通信を繋(つな)いだ。

「笠原さん、流されてませんか?」

『――今、高度上げた。このすぐ下を流れている風が違うから、ポイントに近づくのが難しいかもしれない。ちょっと別の風、探すよ』

 ジジッと音が響いて、笠原さんは通信を切った。それから間もなく、部の熱気球は再び上昇していく。私は地図を広げ、そこに熱気球の現在地と風向きを書き込んだ。

「宮嶋君。今、うちの気球はこの辺りかな?」

「多分ね」

「今の高度はターゲットに向かっている風が流れているけど、その下の風は東に向かって流れてるよね」

「西に流れる風があればね。一度その風に乗って、一気に高度下げて東の風に乗ることができれば、ターゲットに戻れるかもしれないのに。まぁ、そんな都合のいい風なんてないと思うけどね」

 風の流れを見るために風船を飛ばしたとしても、見える距離には限界がある。こういう時、風の流れが目に見えればどんなに便利だろうか。あり得ないことだとわかっていても、思わずにはいられなかった。

「笠原さん、上手く見つけてくれればいいけどね」

「でも、早く風見つけないと、ターゲットを通り過ぎて――」

 地図に向けていた視線を空へ上げた時だった。

 部の熱気球の遥か上空に、一機の熱気球が飛んでいるのが見えた。それがゆっくりと、部の熱気球とは真逆の方角に流れているように見えた。

「ねぇ、宮嶋君。あの熱気球、西に流れてない?」

「どれ?」

「あれ。うちの部の熱気球より、上にある銀色の球皮の」

「……あっ、本当だ!」

 早く伝えなければ――その想いが先走って、焦りからレシーバーのスイッチが上手く押せない。手から落としそうになりながら通信を繋(つな)いだ。

「笠原さん! 上にある銀色の球皮の熱気球、見えますか?」

『上?』

 一言だけ返して、しばらく沈黙が流れた。おそらく、地上から見えているその熱気球の姿を探しているのだろう。その沈黙がやけに長く感じた。

「笠原さん、どうですか?」

『ごめん。ここからは見えない』

「その熱気球、西の方に流れているんです。一度その風に乗ってから、ターゲットに戻ってくることって、できそうですか?」

『――わかった。ちょっと試してみる』

 通信が切れる瞬間、レシーバーの向こうでバーナーの音が聞こえた。

 それから間もなく、部の熱気球はさらに上昇。その狙い通り、西へ吹く風に乗って移動を始めた。そこから高度を一気に下げて、東へ吹く風に乗ればターゲットへ戻ってくるはずだ。

 焦る想いとは裏腹に、その日の空はどこまでも澄んで、いつもより穏やかだった。ジリジリと照りつける陽射しと、重なり合う蝉の声が、やけに熱く、煩く聞こえた。

 大丈夫、きっと大丈夫。けれど、そう祈る瞬間は、ほんの少し遅かったのかもしれない。

『ちょっと難しいかもしれない』

 レシーバーから聞こえたのは、いつになく弱気な笠原さんの声だった。

 西の風に乗り、高度を下げて東の風を確実に捉え、部の熱気球は再び高校のグラウンドへと戻ってきたものの、ターゲットの印から南へ50メートルも流されてしまっていた。

 最後の最後まで、笠原さんは諦(あきら)めずに粘っていたけれど、再び上昇して、ターゲットへ戻る風を見つけるのは難しいと判断したらしい。結局、ターゲットから100メートル離れた先に着陸。マーカーを投げることもできず、その年の大会は記録なしという結果に終わってしまった。

第12回

「お疲れ様でした」

「ありがとな」

 声をかけた私に、笠原さんは申し訳なさそうに笑って言った。礼を言われたはずなのに、その声がどこか寂しげだったせいか、謝られたように思えた。

「私、何もできませんでしたけど……?」

「そんなことないよ。後悔しないで、最後まで飛ばせてよかった」

 笠原さんは手にしているマーカーに視線を落とした。

 最初は強がりを言っているのだと思った。悔しさや苛立ちを誤魔化そうと、自らに言い聞かせる呪文みたいに――私の想像に反して、マーカーを見つめる笠原さんの目は、後悔よりも無事に終わったことに安堵(あんど)しているようだった。

「高度を下げてルートから逸れた時、諦(あきら)めてたんだ。たくさん練習して何度も飛ばしてると、直感でわかるっていうか。無理だなって思ったんだ」

「でもあの時、別の風を探すって言ってましたよね。あの時、諦(あきら)めてたんですか?」

「うん。結果は残せなかったけど。あれ見つけてくれたから、できるところまでやろうって思い直せた」

 見上げた先には、風の流れを教えてくれたあの銀色の熱気球。広大な青空を独り占めするみたいに悠々と飛んでいる。

「内野、ありがとう」

「いいえ。どういたしまして」

 その言葉がじわりと広がっていく。

 少しだけ泣きたくなるような、でも安心したような。そんな不思議な感覚だった。

 

❉❉❉❉

 

 その日の夕方。

 大会を終えた私と宮嶋君は、2人だけの“お疲れ様会”兼“反省会”をすることにした。

 場所は【神社公園】。上士幌町で最も見晴らしの良い高台に神社があり、その傍に設けられている。

 あまりにも的確に場所を示すような名前だから、それが本当の名称なのかと訊ねると、宮嶋君には「わからない」と即答された。話によれば、神社の傍にある公園だからそう呼ばれていると言っていたけれど、どうにも怪しい。ただ、子供たちの間では、その名前で通っているのは確かだそうだ。

「お疲れ様」

「んー、お疲れ」

 公園内で一番の高さを誇る滑り台に上ってジュースを開けた。私はミルクティー、宮嶋君はコーラ。カチッ、プシュッと音がして、ほんのり甘い匂いが鼻先を掠(かす)めた。

 赤に近い夕日が日高山脈の向こう側に沈み始める様子を眺めながら、疲労が混じる溜息を同時についた。

「今日、惜しかったね」

「だね。あと少し早く気づいていれば、結果は違ってたかもしれないね」

 思い出したのは、笠原さんの笑顔だった。

 笠原さんは“ありがとう”と言ってくれた。ただ、あれが本心だったのか、私にはわからない。嘘をつく人ではないけれど、あの時だけ、余計な気を使わせないようにしてくれたとも考えられる。

「本当に、あれでよかったのかな……」

「俺も内野も大会は初参加だからね。何が良くて何が悪いのか。判断するには経験不足だよ。まぁ、来年頑張ればいいんじゃない?」

「その時は下じゃなくて、上がいいね」

「当然」

 そう言った直後。宮島君の返事を掻き消すみたいに、突然、バーナーの音が頭上で弾けた。

 ちょっと不気味で可愛い笑顔を浮かべたジャック・オ・ランタンの熱気球が、手が届きそうなくらいの低空飛行で通過していった。確か、今日の大会にも参加していたチームだ。

 搭乗しているパイロットは、まるでサンタクロースみたいに立派な白い髭を生やしたお爺さん。私が手を振ると、お爺さんも手を振り返しながらバーナーを2回鳴らした。その音が空気を震わせ、鳩尾(みぞおち)に響く度に、頭の中で記憶が再生される。

 【Pu/t】に選ばれなくて泣いて、自分の未熟さに気づいて後悔して、笠原さんにかけられた言葉に助けられて――そして今日、地上から見上げる立場に立って、ようやくわかった。

 望んだのは空だった。圧倒される景色と息を呑む感覚を味わいたくて、その領域へ辿り着く手段が欲しくて仕方なかった。今の今まで、それしか見ていなかった。

「欲張り、だったんだよね」

「何のこと?」

「熱気球のこととか、パイロットのこと。私が、自分が――って。前にばかり出ようとしてたんだよね、私」

 全ては“自分が頑張れば、ちゃんとしていれば”と思い込んで、それを疑うことすらしなかった。きっとパイロットへの想いが強過ぎたせいで、見ているつもりになっていただけ。大会に参加して、地上に立って、空を見上げて気づかされた。

「準備も立ち上げも、飛ばすのも、たった一人じゃ無理でしょ? 熱気球を飛ばすのはパイロットの力だけじゃなくて、色んな人の協力があって飛ばすものなんだよね。笠原さんに“ありがとう”って言われて、それを思い知らされた気がして、恥ずかしくなっちゃった」

 “はた(傍)をらく(楽)にする”――笠原さんが教えてくれたあの言葉が、じわりと、心の中で溶けて問い質してくる。地上にいた私は、ちゃんと果たせていたのか、と。本当の意味を理解するには、まだまだ時間がかかりそう。

「あんまり欲張っちゃいけないね」

「いいと思うよ、欲張りで」

 清々しいくらいに、宮島君はきっぱりと答えた。相変わらず他人事な台詞に吹き出してしまった。

「いいの?」

「多少の欲がないと上達なんてできないって、うちの婆ちゃんが言ってた。あっ、でも、欲が強過ぎても成功しないって言ってたかな」

「どっちなのよ、それ」

「だから、ほどほどがいいんだよ」

 あぁ、そうか。今、わかった気がする。

 口癖のように言っていたその言葉は、単なる癖であって深い意味なんてない、やる気がないだけだと思っていた。きっと、それこそが大きな間違い。

“頑張るけれど頑張り過ぎない”

 周りが見えなくなって空回りしてしまわないよう、軌道修正をしつつ前に進むことができる。そんな力が込められているのだとしたら、案外、素敵な言葉なのかもしれない。

「じゃあ、来年もほどほどに頑張ろうか」

「うん。ほどほどにね」

「でも、来年の大会は私が搭乗するから。そこは譲れないわ」

「それって、ほどほどじゃないんだけど?」

最終回

❉❉❉❉  Ⅴ  ❉❉❉❉

 

 3年目の春。私が初めて部活に出た日と同じように、その日も春の雪が降った。

 風もなく穏やかで、空は雲一つない晴天。肌がヒリヒリと痛むくらい、空気だけが冷えている。そして決まって、そんな朝はとても静かだった。きっと、今日はいつもより高く飛べるだろう。

「宮嶋君。バーナーフレーム、つけるよ。頭、気をつけてね」

「んっ。内野、それ終ったらあっち、様子見てきて」

 ガスボンベを固定していた宮嶋君がバスケットから顔をひょいと覗かせ、グラウンドの方を指差した。球皮を広げ終えた2年生部員3人が、積もった雪で雪合戦の真っ最中だった。

「遊んでるし……」

「だから気合い入れてきて」

「それって部長の仕事じゃないの?」

「内野の方が怒ったら迫力あるし、効果もあるでしょ?」

「何よ、それ」

 その場は宮嶋君に任せ、準備そっちのけで遊んでいる彼らのもとへ向おうとすると――

「内野さーん!」

 見計らったようなタイミングで呼び止められた。

 新入部員の加納さんと藤井さんが、インフレーターの前であたふたしている。目が合うなり「助けて下さい!」と2人で必死に手招きをした。

「どうしたの?」

「これ、どうやって動かすのかわからないんです」

「スイッチも見当たらなくて……」

「あぁ、これはね。ここを思いっきり引っ張るの。その前に球皮とバーナーフレーム、ケーブルで繋(つな)げないとね」

 と、背後を指さす。ガスボンベの固定が終わり、宮嶋君と先生、1年生の部員たちがバスケットを倒し始める。2年生が遊んでいるせいで人手が足りないらしく、手間取っているようだった。

「インフレーターは私がやっておくから、2人は球皮の開口部を持ち上げる作業、頼んでもいい?」

「わかりましたっ」

「あっち、行ってきますね」

 そう言って、2人は駆けて行く。

 去年は部員が5人増えたものの、見事に男子ばかり。結局2年連続で紅一点だった。そして今年、新入部員がさらに6人増え、その内2人は念願の女子部員。加納さんと藤井さんが入ったことで、多少むさ苦しく感じていた部活にも華やかさが増した。

 愛嬌もあって器用な2人は、かけ持ちで入っている家庭部でケーキを作ったからと、私にまで届けてくれることがある。その気遣いがなんとも可愛らしい。

 パイロットを目指す前に、私もこんな愛らしさを身につけておくべきだったと、今更ながら反省していた、そこへ――

「おいっ、いつまで遊んでるつもりだ!」

 私が説教をする前に痺れを切らしたのは上条先生だった。

 基本的に優しい先生は、怒っても優しいのがやや難点。2年生たちも「わかってま~す」なんて軽い返事をしながら、雪合戦続行。

 先生が2年生を追いかけまわしている間に、私はインフレーターを起動した。球皮に風を送り込んで、あっという間に膨らませる。そして新入部員たちは恒例の球皮内見学。はしゃぐ声が球皮の中で反響していた。

「宮嶋、内野。今日はどっちが先に搭乗する?」

 ようやく戻ってきた先生は、少し息を切らしながら訊ねた。

 2回飛ばせそうな日は、搭乗の順番をジャンケンで決める。それが私と宮嶋君のルールになっていた。

 互いに拳を突き合わせ、無言でジャンケン。結果、私がチョキで宮嶋君がパー。

 いつもは宮嶋君が勝つのに、今日は珍しく私が勝った。もしかしたら、今日は雪が降るかもしれない。

「じゃあ、私が先でお願いします」

「わかった。宮嶋は下から指示、頼むな」

 レシーバーを託して、私、上条先生の順にバスケットに乗り込んだ。そして一緒に搭乗するのは加納さんと藤井さん。これは私の指名だった。

 誰にも言ったことはなかったけれど、女子部員が入ったら、私が操縦する熱気球に搭乗してもらうのが密かな願いだった。また一つ、私の願いが叶った。

「内野、準備いいか?」

「はい、いつでも大丈夫です」

「よし。それじゃ、行こうか」

 先生の合図で、バスケットを押さえていた部員たちが一斉に手を離した。熱気球は瞬く間に地上を離れ、吹き上がる炎と風に運ばれ、空へと上っていく。

「うわぁ……足、すくむ高さだね」

「でもすごいよ! あぁ、写真撮りたい!」

 地上を見下ろしながら、怖がったりはしゃいだりする2人の姿は、2年前の自分と重なった。それが懐かしかったり、少しだけ面映かったり。その気恥ずかしさが手にも伝わったらしく、レバーを引くタイミングを誤ってしまった。

「あっ。先生、今のはマズかったでしょうか?」

 その一言で十分に伝わったらしく、先生はバスケットから身を乗り出して地上を見下ろした。

「んー、大丈夫だと思うけど、次は気をつけないとな」

「何かあったんですか?」

 会話を聞いていた2人が、不安そうに訊ねた。こんな足もつかない空の上で、含みのある会話をされたら、誰だって不安にもなる。

「低空飛行している時はね、バーナーの音に気をつけないといけないの。早朝ってこともあるんだけど、特に動物がいる時はね」

 話しているその最中、通りかかったのは酪農家さんの敷地内。ちょうど真下には牛舎があって、柵の中を歩いている数十頭の牛たちが、モーと鳴きながらこちらを見上げていた。

「音にびっくりしちゃうから、注意しないといけないんだよ」

 そう話していた、まさにその時。薄暗かった辺りに光が広がり、銀色の朝陽が昇った。その光景に、2人は瞬きするのも忘れて見つめていた。

 私が初めてここに立って、目にしたあの景色と何も変わらない。

 薄紫色(うすむらさきいろ)の空も、どこまでも広がる白銀の大地も、空に浮かぶ白い残月も。あの時と同じ。何度見ても圧倒され、言葉も感情も掻(か)っ攫(さら)っていく。

「先生、ポイントどこにしましょうか?」

「練習も兼ねて、自分で考えな」

 3年前、笠原さんと先生が交わしていた会話を、今度は私が交わしている。やっとここまで辿り着いたと思う一方で、まだまだ気が抜けないと身が引き締まった。

 先月、筆記試験も無事合格して、実技試験を残すのみ。それを笠原さんに報告すると「あとは鬼教官が待ってる」なんて意地の悪いことを言われたせいで、久々に緊張していた。

 こうなったら、笠原さんよりもいい点を取って試験に合格してみせる。そう思うと、俄然やる気が出てきた。

「内野、落ちてきたぞ。この辺りは電線が多いから、一度上げておけ」

「はい。とりあえずこのまま真っ直ぐ進んで、あの辺りの畑に――」

『内野、どんな状況?』 

 ザザッとレシーバーに雑音が入り、宮嶋君の声が会話に割り込んだ。

 地上を見下ろすと、先回りしていた熱気球部のワゴン車が、細い農道の入口に停車している。助手席からは、こちらを見上げて手を振っている宮嶋君の姿が確認できた。

「今のところは順調だよ。このまま真っ直ぐ進んだ先にある畑、見える? あの古いサイロがあるところ。とりあえず、そのポイントで着陸する予定だよ」

『了解』

 通信を切り、私はレバーを握る手に力を込めた。

「先生、いいですか?」

「やってみな。実技試験での着陸は、合否を左右する重要なポイントになる。気、緩めないように」

「了解です」

 朝陽に目を細めながら、私はレバーを引いた。

 バーナーの音に応えるように、空を飛んでいた鳶が鳴いていた。