天穹のバロン

2023年7月の記事一覧

第6回

 子供たちと一緒に鬼ごっこをしている先輩が、私と宮嶋君に向って手招きをしている。全てを聞き取ることはできなかったけれど、どうやら人数が足りないから私と宮嶋君も参加しろと言っているらしい。

 宮嶋君は大きく手を振り返してから、残っていたアイスをあっという間に平らげた。

「ごちそうさま。内野も行かない?」

「鬼ごっこ? 私はいいよ。もう少し、ここで休んでるから」

「そう? じゃあ、俺は参加してくるよ」

 ヒラヒラと手を振りながら、宮嶋君は子供たちのもとへ駆けて行く。その姿を眺めていると――

「内野さんも、混ざってきたらどうだい?」

 そこへやってきたのは、笠原さんのお父さん。土日の部活には必ず足を運んで、部の活動写真を撮ってくれている。熱気球部では有名な名物お父さんだった。

 本業は畑作農家。その傍ら陶芸家としても活動していて、時々、個展を開いたりもしているらしい。

 三ヶ月くらい前だっただろうか。廃校になった小学校で、熱気球の写真と、それをイメージした陶芸作品の個展を開いたと、地方紙の新聞に取り上げられているのを見た覚えがある。

「行かないの?」

「ちょっと疲れちゃって。そうだ、今日は良い写真撮れました?」

「もちろん。今日は素敵な写真が撮れたよ」

 そう言って、さっきまで宮嶋君が座っていたブランコに腰掛けた。首に下げている一眼レフのデジタルカメラを私に差し出し、保存されているデータを見せてくれた。

 そこに映っていたのは私。子供たちと球皮袋を運んだ、あの時の写真だった。自分で見るのも恥ずかしくなるくらい、そこにいる私は満面の笑顔だった。

「素敵でしょ? こういう笑顔はね、みんなが居る場所で、もっとたくさん見せた方がいいものだと思うんだよ」

「こんな日陰のブランコにいたら、駄目ですよね」

 性格とは厄介で、持って生まれたものはそう簡単には変えられない。歩み寄りたくても二の足を踏んで、そうしている内に踏み出すことすら怖くなってしまう。傷つくくらいならこのままでいい。そしていつも、前に進めなくなっている。

「私、宮嶋君が羨ましいです。あっという間に輪の中にとけ込んでしまうじゃないですか? 何の違和感もなく。ずっと前からそこに居たみたいに」

「あれは天性のものだろうね。相手を警戒させない、柔らかい雰囲気は意識して出せるものではないからね。でも、真似くらいならできるかもしれないね。内野さんもやってみたらどうだい?」

「無理ですよ。そういう性格じゃないですから。でも、宮嶋君みたいに誰とでも接することができたら楽しいだろうなって、見ていると時々思うんです」

「そう思っているなら大丈夫。いつかちゃんと、行動を起こせる時が必ず来るよ」

 何の根拠があるのだろうか。怪訝(けげん)な顔を向ける私に、おじさんはニッと笑って、グラウンドの方へ視線を向けた。

「うちの息子、凌太のことだけど。内野さんには、息子はどんなふうに見える?」

「笠原さんですか?」

 グラウンドで子供たちと走り回っている笠原さんを目で追った。午前中まではぎこちなかったのに、今はごく自然に笑っている。子供たちの無邪気さが移ったのではないか、そう思うくらい楽しそうで、見ている私もつい含み笑ってしまった。

「口数は少ないですけど、その分、やるべきことは行動で示すというか。ちょっとやそっとのことじゃ折れない、強い人ってイメージです。身体的な面ではなくて、内面的な強さでしょうか」

「そう見えるなら、親としては嬉しい限りだね。でもね、凌太はああ見えても繊細というか、考え過ぎてしまうところがあって。中学の時、半年ほど学校に行かなくなった時期があったんだ」

「そ、そうなんですか?」

 信じられない。驚き過ぎて、発した声は見事に裏返った。

 笠原さんは「よほどのことが無い限りは休まない」と入学前から宣言していたらしく、その言葉通り、今まで一度も学校を休んだことがないと、上条先生が言っていた。

 熱があって体調が優れないのに、平然とした顔で登校するくらい根性がある笠原さんに、そんな時期があったなんて知らなかった。

 半年の間であっても、友達や外の人たちとの接触を断っていれば、誰だって壁を作ってしまう。意識的にそれを隠していたとしても、一度できた壁を壊すのは、他者であっても本人であっても難しい。でも笠原さんからは、そんな雰囲気は少しも感じなかった。

「もしかして。私のこと、からかってます?」

「いや、本当のことなんだよ。僕も、あの時間が嘘だったんじゃないかって、時々思うんだけどね――あっ、内野さん。溶けてる、溶けてる!」

 おじさんは私を見るなり指差した。話をするのに夢中になって、持っていたアイスのことをすっかり忘れていた。

 暑さで溶けたアイスは、いつの間にか指先を伝って地面に苺味のミルク溜まりを作っていた。私は慌てて溶けたアイスを食べた。

「それで……笠原さんは、どうして学校に行かなくなっちゃったんですか?」

「僕にも未だにわからないんだ。聞いても“今はもうどうでもいいことだ”って、話してくれないし」

「嫌なことでもあったんでしょうか?」

「どうなんだろうね。親の僕から見ても成績は良かったし、勉強が嫌いだったわけでもないみたいなんだ」

「苦手な友達でもいたとか?」

 その問いに、おじさんは「うーん」と唸(うな)りながら首を傾(かし)げた。

「僕もそれを考えていたんだけどね。でも、学校へ行かなくなってから、代わるがわる違う子が毎日家に遊びに来ていたし、凌太も楽しそうにしていたからね。きっと“何となく”行きたくなくなったんだと思う。小さい頃からそういうところがあったから」

「特に理由はないってことですか?」

「おそらく、としか言いようがないかな」

 私には、何となくわかる気がした。

 本当に時々。不安や焦りみたいなものが腹の奥底にあって、それが何なのか、どうしてそれが気になるのか、いくら考えても明確な答えが見つけられない時がある。

 悩みながら答えを探している内に、何もかもがどうでもよくなってしまう瞬間がある。考えることすら面倒になって、気力がどこかへ行ってしまう。きっと、笠原さんはそれを感じた瞬間があったのかもしれない。

「もしかしたら、凌太はこのままなのかなって覚悟していたよ。でも凌太の中で、変わらなければ駄目だと思った瞬間があったんだろうね。ある日突然、熱気球のパイロット免許が取りたいから、上高を受験するって言い出したんだよ」

「本当、突然ですね」

「本当にね」

 苦笑いを浮かべながらも、笠原さんを見つめる目は優しくて、安堵(あんど)しているように見えた。

「きっとね、何かを掴(つか)みたいと思った時は、待っているだけじゃ駄目なんだよ。自分の足で向かって、自分の手を伸ばして掴まないといけない」

「自分の手を伸ばして……」

 呪文を唱えるみたいに、私はその言葉をくり返した。その度に、胸がズキズキと痛んだ。

 私は、自分が変わるために歩くのではなく、無意識の内に周りが変わるのを待っていた。そうしている方が楽だから。でも、それではいつまで経っても、何も変わらない。

 自分が変わろうとすることが私には必要不可欠。おじさんはそれを伝えたかったのだろう。ただ、言葉で言うほど、それは簡単なことではない。

 必要なのは踏み出す勇気。引っ込み思案な人間にとっては、この一歩が途轍(とてつ)もなく大きなものに感じた。

「おじさん。私も、変わることってできるでしょうか?」

「変わりたいと思っている人は必ず変われるものだよ。変わらない人は、変わりたいとすら考えないからね」

 私は残りのアイスを強引に口へ押し込んだ。とたんに、キーンッと痺れるような痛みが頭を駆け抜ける。眉間のあたりを指先で叩きながら、ブランコから立ち上がった。

「私、ちょっと走ってきます」

「うん、行っておいで」

 アイスの棒を袋で包み、それをポケットに押し込む。よしっと、自分に気合を入れて、走り回って遊んでいる子供たちのもとへ駆け出した。

第7回

❉❉❉❉  Ⅲ  ❉❉❉❉

 

 2年目の春がやってきた。

 入学式を終え、各部活が新入部員の勧誘で慌(あわ)ただしく動いていた4月半ばの土曜日。【Pu/t】のことで話があると、部活終わりに職員室へ呼び出された。

「1年間、内野を見てきた上での結果だ」

「……わかりました」

 【Pu/t】として指導するか否か。上条先生からその答えを告げられた私は、そう答えることしかできなかった。

“登録させるのは難しい”――それが先生の出した結果だった。

 私同様に、パイロットの資格取得を目指していた宮嶋君を【Pu/t】に選んだと先生は言っていたけれど、その声も途中から耳に入らなかった。

 言葉が耳の奥で弾けて、頭の中から消えていく。寒気にも似た感覚が背筋を走って、心臓の動きを鈍(にぶ)らせる。一瞬、止まってしまったのではないかと錯覚するほどだった。

 どうして駄目だったのか、何が悪かったのか。宮嶋君が選ばれて、私が選ばれなかった違いは何なのか。

 聞きたいことはあったけれど、それを聞く勇気も今はない。ただ「ありがとうございました」と言って、その場から逃げることしかできなかった。

「……駄目だ。少し、落ち着かなきゃ」

 廊下で吐き出した声は震えていた。

 自分でもはっきりとわかるくらいに動揺していた。駄目だった時のために心の準備はしていたつもりだったけれど、想像以上に落ち込んでいた。

 このまま考え続けていたら、それこそ立ち直れなくなる。落ち着くまで、別のことで紛らわそう。そう思うと無性に墨の匂いが恋しくなって、書道部が部室として使っている2階の多目的室へ向かった。

 併設されている物品庫から道具を持って多目的室に入り、並んでいる机の一部を移動させて、書道ができるスペースを作る。

 床に広げたのは全紙用の大きな下敷き。小柄な女の子なら、2人くらいは余裕で寝転がることができる。そこに自分よりも大きな全紙をそっと乗せ、自らもその上に正座した。

 硯(すずり)に墨も入れた。

筆に墨も染み込ませた。

 あとは筆を走らせるだけ。

 ただそれだけなのに。腕をつき、下を向いたとたんに視界がグニャリと滲んでぼやける。鼻の奥がツンと痛くなって、ポタタッ、タッタッと、大きな音をたてて、紙の上に涙が落ちた。

「どうってことはないのに、こんなこと……」

 言葉を口にすればするほど、悔しさや怒りがこみ上げてくる。

 どうして駄目だったの?

 何がいけなかったの?

 そんなことはわかりきっている。私が【Pu/t】になるには未熟だった。ただそれだけだ。

 大人でさえ取得が難しいパイロットの資格試験を、心身ともに未熟な高校生の私が挑戦しようというのだ。先生の目が厳しくなるのは当然。

 今は駄目でも、二度とパイロットの資格が取得できないわけではない。高校を卒業して社会人になってから、どこかのチームに所属して、それから受けることだってできる。道が閉ざされたわけではないのだから、泣く必要なんてどこにもないのに――。

 わかっていても、悔しいものは悔しい。

 今でなければ、この時でなければ意味がない。高校3年間という短い期間の中で手にする。初めてのフリーフライトで空から景色を見たあの瞬間、自分でも驚くほどに手にしたいと思った願いだった。それが叶わないと思うと、自分では涙を押さえることができなかった。

 この声が誰かに聞こえてしまうかもしれない。必死に声を押し殺していたけれど、我慢するほど涙は溢(あふ)れる。いっそのこと、大声で泣きじゃくってしまおうか。そんな思いに駆られた、その時――突然、教室のドアが勢いよく開いた。

 ハッとして顔を上げると、気まずそうな表情を顔に貼りつけた笠原さんが入口に立っていた。血の気がサーッと引いて行くような、あるいは心地よく寝ていたところを叩き起されたような。とにかく、驚き過ぎて涙がぴたりと止まった。

 互いに言葉も交わさず、数秒ほど居心地の悪い空気が流れた。どういう顔をしていいのかわからず、私は視線を泳がせた。

「あ、あの……何か」

「……忘れ物、渡そうと思って」

 話を切り出した私に、笠原さんは手にしていたもの差し出した。それは私の上着だった。

 片付けをしている内に暑くなって脱ぎ、ワゴン車の助手席に置いたままだったことを今になって思い出した。

 慌てて立ち上がったものの、いつの間にか足が痺れていたらしく、思うように歩けない。フラつきながら辿り着き、笠原さんから上着を受け取った。

「す、すみませんでした」

「いや、いいけどさ」

「……じゃあ、私はこれで」

「おいおい、何か言うことあるだろ」

 背中を向けたとたん、笠原さんが呆れたように吹き出した。

 言いたいことはわかる。どうして泣いていたのか話せというのだろう。でも、今は説明できる状態ではないし、できれば放っておいてほしい。私は眉間(みけん)にシワを寄せ、半身だけ振り返った。

「何かって、何でしょう……」

「ここまで気まずい現場見せておいて、説明ナシ?」

「……」

「まぁ、話したくないなら別にいいけど」

「あっ、ちょっと待ってください!」

 帰ろうとする笠原さんを慌てて呼び止めた。

 そういう態度を取られると、妙に寂しくなる。説明はしたくないし、今は一人になりたい。その反面、誰かに聞いてほしいというのも本音だった。

「ちょっとご相談が……」

 結局、私は笠原さんに全てを話すことにした。おそらく私の性格上、独りで溜め込んでいると抜け出せなくなってしまうから。

 先生から結果を告げられたこと、私ではなく宮嶋君が【Pu/t】に選ばれたこと。そして号泣に至った経緯を話した。

 私が話し終わるまで、笠原さんは何も言わず、ただ黙って聞いてくれた。

 最初は話すだけで涙ぐんでしまって、所々言葉に詰まってしまった。それでも笠原さんは口を閉ざしたまま、真っ直ぐに私を見て相槌(あいづち)を打ってくれるだけ。そのおかげで、悔しさや悲しさは和らいだ気がする。

「宮嶋君が選ばれたのは納得できるんです。でも自分のことになると、納得がいかなくて……笠原さんから見ても、私、やっぱり駄目ですか?」

「あぁ。俺が先生の立場でも、同じ答えだったと思う」

 目の前で胡坐(あぐら)をかいて座っている笠原さんは、清々しいほどの即答だった。

 遠回しな言い方も、誤魔化すような言葉も使わないところは笠原さんらしい。全紙の上で正座をしていた私は、おかしさ半分、悲しさ半分で項垂(うなだ)れた。

「具体的に、何がいけないと思います?」

「俺も人に言えるほど、できているとは言えないけど。多分、先生が内野に足りないと判断したのは、気配りと観察力だと思う」

「気配りと観察力……」

「内野って、一つのことに集中すると、周りが見えなくなるところあるだろ?」

 言われたとたん、去年の失敗が蘇った。中心になって作業しろとの指示で、頭が真っ白になった、あの記憶。1年経ったというのに、今思い出しても苦い記憶のままだ。

 気をつけていたつもりでも、染みついた思考や行動パターンは、常に意識していない限りそう簡単には直せない。気づけば夢中になって、言われるまで気づかないことが多い。

「それって、致命的ですね……」

「パイロットに必要なのは、全体を見て把握して、冷静に物事を判断できる力なんだと思う。だから、一つのことしか見えていない状態だと、危険に繋(つな)がる」

 だから先生は私を【Pu/t】にするには未熟だと判断した。

 泣いてばかりでは見えなかった答えも、こうして冷静になって、一歩下がった場所から見渡せば簡単に見つけることができる。やはり私が選ばれなかったのは当然だったわけだ。

「気配りと観察力……今からでも遅くないなら、身につけたいところです」

「なぁ、内野」

「何ですか?」

「お前さ、家で手伝いとかやってないだろ」

 その言葉には耳が痛かった。

 実のところ、今の今まで、手伝いと呼べる手伝いはしていない気がする。母にはそのことで小言を言われてこともあったけれど、勉強が、塾が、習い事が――なんて、そんな理由を作って逃げていた時もあった。いや、むしろ今も逃げているかもしれない。

「ど、どうしてそう思うんですか?」

「行動、見ていたらわかる。あぁ、こいつ何もやってないなって」

「あははっ……」

 部活での行動しか見られていないはずなのに、何をどう見れば、それがわかるというのか。“できないオーラ”でも出てしまっているのかもしれない。なんだか急に恥ずかしくなってしまった。

「これは、父さんの受け売りだけど。気配りできるようになりたかったら、部活をやってるんじゃなくて、自分が働いているって置き換えて考えろってさ」

「部活で、ですか?」

「働くってことは“はた(傍)”を“らく(楽)”にすることなんだって。相手が楽に仕事をするには、自分がどうすればいいのか。観察していれば、何も考えなくても自然と動けるようになる」

 そう言うと、笠原さんは立ち上がって私を見下ろした。

「とりあえず。内野は今日、帰ったら家の手伝いをすること。掃除でも洗濯でも料理でも、何でもいい」

「は、はい。あっ、でも、働くとか気配りに何の関係が……?」

「今は言ってもわからないと思うから、とにかく手伝え。それが終わったら俺に報告すること」

 それだけ言って笠原さんは教室を出て行ってしまった。残された私は、静まり返る教室でしばらく座り込んでいた。

第8回

❉❉❉❉

 

 雪が降るかもしれない。

 キッチンで昼食の準備をしていた母に「家事を手伝いたい」と話したとたん、そう言って笑い飛ばされてしまった。

「どういう風の吹き回しなの?」

 じゃがいもの皮をむいている私に母が訊ねた。横目でちらりと様子を伺えば、興味深げに私を見つめる母の顔があった。

「えっと、ほら。私も高校生だし。何もしないのも、ね」

「あら、やっと気づいたのね」

「うん、まぁ、そんなところかな」

 笠原さんに手伝えと言われたからだなんて、口が裂けても言えない。とりあえず、もっともらしいことを言って誤魔化した。

「なんだか、ずいぶん歪(いびつ)ね」

「皮、むいてるだけなんだけどね……」

 たかが皮むき、されど皮むき。いくら皮むき器を使っていようとも、普段からやっていない人間が皮をむくとデコボコになるものらしい。

“女の子なんだから、今のうちにやっておかないと後で大変”

 小さい頃から耳にタコができるほど母に言われてきた言葉だった。勉強が、習い事が、と言い訳して回避してきたツケが回ってきたのかもしれない。こんなことなら、ちゃんと手伝っておけばよかった。

「これ、大丈夫?」

「煮込んでしまえばわからないでしょ」

 と、母はクスクス含み笑った。

 今日の昼食は、祖父のリクエストでハヤシライス。CMで流れていたのを見て食べたくなったらしい。

 カレーやシチュー同様、野菜は煮込んでしまうし、ルウでコーティングされてしまう。多少デコボコでもわかりはしない――と、気休め程度に開き直っておこう。

 他の野菜も皮をむき終え、食感が残るよう少し大きめに切り分けていく。すると、まな板の上には野菜の山ができあがる。作業がしづらくなるから、別の場所へ移さなければ。鍋か、それともボウルにしようか。

「何か、入れ物――」

 食器棚の方へ振り返ったとたん、目の前にステンレスのボウルが差し出された。それを手にした母がニッコリと笑った。

「はい、これ使いなさい」

「あ、ありがとう」

 受け取って、再び調理台に向かった。

 野菜をまな板からボウルへ移し、次は肉の番。確か冷蔵庫に入れたままだったはず。そう思っていた矢先。まな板の前にポンと、肉の入ったパックが置かれ、ガス台の上に鍋が用意される。また母だ。

 ありがとう――その言葉を受け取る前に、母はさっさと次の作業を進めてしまう。サラダを用意したり、スープの準備をしたり。私が準備をしている間、母も同時進行で別の準備をしていたはずなのに。もしかして、私の行動を見ながら作業をしていたのだろうか。

 その時、ゾクゾクと、何かが背筋を駆け上がる感覚を覚えた。

 わかりそうで、わからないような。喉の辺りか、あるいは鳩尾(みぞおち)の辺りまで来ているのに、それがなかなか上がってこなくて、もどかしい感覚。何だろう、今わかりそうだった。

 シンクでレタスを洗っている母の姿をまじまじと見つめた。急にハッと顔を上げ、辺りを見回すような仕草をした。

「お母さん、これ」

 とっさに、私が取って差し出したのは笊。母はそこに洗ったレタスを入れた。

「あら、ありがとう」

「うん」

 微笑んだ母を見た瞬間、部活での光景を思い出していた。

 先生がバスケットの上に乗ってバーナーを取りつけ、笠原さんはその傍でフレームのカバーを手に待機している光景だ。あの時、先生が手を出せば、笠原さんはすぐにそれを手渡していた。交わされる言葉はほんのわずかだった。

 

―― 多分、先生が内野に足りないと判断したのは、気配りと観察力だと思う

 

 全てではない。けれど、分かった気がした。

 気を配るということは、同時に観察するということ。今、あの人は何を考え、何を必要としているのか。これは相手を思っていなければ決してできないことだ。

「……お母さん、ちょっと部屋に行ってもいい?」

「うん、いいわよ」

「すぐ、戻ってくるから」

 煮込んで火を通している間に、私は一度部屋に戻った。もちろん、笠原さんに連絡を取るため。

 気づいたこと、わかりかけたことを話さなければ。そう思って携帯を手にしたものの、画面を睨(にら)みつけたまま電話できずに躊躇(ちゅうちょ)していた。

「考えてみたら、笠原さんに電話するのって初めてなんだよね……」

 一応、全部員の番号は登録しているけれど、かけたことのない人がほとんど。

 部活の連絡はだいたい宮嶋君から回ってくるし、私も宮嶋君を頼っていたから、かける機会はほとんどなかった。

「学校で話せばいいかな……でも、報告しろって言われちゃったし」

 学校で話した時は特に何とも思わなかったけれど、いざ携帯を手にすると緊張する。

 思い切って通話ボタンを押し、おずおずと耳に押し当てた。コール音が4回ほど鳴ったところで、ガチャッと繋(つな)がる。笠原さんの声よりも先に聞こえたのは、ゴーッと響く雑音。どうやら外にいるらしい。

『もしもし』

 少し遅れて、突慳貪ないつもの声がした。私は小さく息を吸い込んで、携帯を握る手に力を込めた。

「う、内野です。今、大丈夫ですか?」

『あぁ、ちょっと待って』

 すると、声の合間に聞こえていた雑音が消えた。代わりに聞こえたのは「――とかち4号の改札中です」というアナウンス。笠原さんが駅の中に入ったらしい。

「かけ直した方がいいですか?」

『いや、大丈夫。それで、何かあった?』

「学校で笠原さんに言われたこと、実行したので。そのご報告を」

『――あぁ』

 数秒ほど間を置いて、思い出したような返事をする。自分で報告しろと言ったのに、今の今まで忘れていたような口振りだった。

『どうだった?』

「相手のこと、ちゃんと見ていないと気を配ることなんてできないんですね。私にそれが欠けていたこと、やっとわかりました。おかげで今、色々後悔してます」

 ドアにもたれたまま、ずるずると滑り落ちるように、その場に座り込んだ。

 もっと早く、気づけていれば結果は違っていたかもしれない。そう思うと、肩の辺りが重くなった気がした。

『そこまでわかったなら、あとは“自分がどうしたいか”だけだな』

「どうしたいか……?」

『後悔して落ち込むのは誰でもできるってこと。重要なのは、その後の行動だと思うよ』

 

―― 5番線に、列車が到着いたします。

 

 再び、背後でアナウンスが響いた。それに耳を傾けているのか、笠原さんの言葉が一瞬途切れた。

『とにかく、腐っていじけるか、受け入れて進むか。ここから先は、内野自身が選ぶしかない。どうしたいのか、自分のことだからわかるだろうし。まぁ、頑張れ』

「えっ、笠原さんっ!」

 名前を呼んだ時には、すでに通話は切れていた。暗くなった画面をしばらく見つめた。

 私はこれから、どうしたいのか。

 笠原さんに言われた言葉が頭の中でぐるぐると駆け回る。その問いかけが、諦(あきら)めの悪い厄介な性格を叩き起こしたのは間違いなかった。

 部活を辞めない限り、私にはあと2年という時間が残されている。

 腐っていじけるか、受け入れて進むか――後悔した気持ちを引きずったまま2年間を過ごすのか、それとも気持ちを切り替えて過ごすのか。それは、選択肢によって心のありかたが違うということ。悪い方にも良い方にも、考え方によって大きく変わることだ。

「私が、どうしたいのか。どうしたいのか……」

 何度も、呪文のようにそれをくり返した。その言葉から導き出される答えは、どうあっても同じ答えばかり。もう、私にはそれしかなかった。腐るのも、受け入れるのも嫌だ。

 部屋を飛び出し、私は階段を駆け下りた。リビングのソファに置いてあった上着を手に、そのまま玄関へと走った。

「莉緒、どこ行くの? お昼ご飯、そろそろできるわよ?」

 私に気づいた母が、リビングの入口から顔を出した。

 今は昼食を食べている場合ではない。呼ばれて振り返ったものの、すぐに踵(きびす)を返した。勢い余って裸足で玄関に下りしまったけれど、この際かまうものか。少し乱暴に靴を履きながら上着を羽織った。

「ちょ、ちょっと、学校に忘れ物しちゃって。取りに行ってくるね」

「ご飯食べてからでもいいでしょ?」

「そうだけど……すぐ戻るから!」

「ちょっと、莉緒!」

 呼び止める母の言葉を振り切って、私は家を飛び出した。

第9回

 

「失礼します!」

 勢いをつけて飛び込むように、職員のドアを力いっぱい押し開けた。

 中に踏み込んだところで、給湯室からカップラーメンを手にした上条先生と遭遇。突然飛び込んできた私に、先生は後ろへ飛び退いて驚いていた。

「内野、どうした!?」

「先生にお願いがあって戻ってきました」

 呼吸を整えながら、職員室内を見渡した。日曜日ということもあって、職員室に他の先生の姿はなかった。

「お昼ご飯、終ってからでいいので……聞いてもらえますか?」

「あ、あぁ、わかった。とりあえず、座るか」

 先生に促され、職員室の隅に置かれている年季の入ったソファへ移動した。

 私は2人掛けの方、先生はガラスのテーブルを挟んだ向かいにある、一人掛けのソファに座った。スプリングが壊れているらしく、先生が座ったとたんにギギッと音がした。

「そんなに慌ててどうした? 何かあったのか?」

 そう訊ねながら、先生は持っていたカップラーメンをテーブルに置いた。振動で中のスープが少しこぼれて手にかかったらしく、先生は「熱っ!」と慌てて手を離した。

「だ、大丈夫ですか?」

「ん? あぁ、ごめん。大丈夫、大丈夫。それで、話したいことって?」

「えっと、【Pu/t】のことなんですけど……私、諦(あきら)めたくないんです。足りない部分はこれから何とかします。だから、【Pu/t】に登録させてください!」

 言った、言ってしまった。これでもう、後戻りはできない。そう思うと心臓が張り裂けそうだった。

 私には、もうこれしかなかった。こうだと決めたら最後まで貫き通す。わがままだし、無茶を言っていることもわかっている。未熟なことも重々承知の上。それでも、諦(あきら)めて後悔するよりはずっとマシだ。

 私にできることは、現状を受け入れて、強引にでも前に進むことだけだった。

「先生、お願いします!」

「んー、そうきたか……」

 身を乗り出す私を見つめながら、先生は口を真一文字に結ぶ。小さく唸りながら、困ったように頭を掻いた。

「内野の気持ちは十分わかっているつもりだよ。部活内外での内野を、1年間見てきた上での判断で――」

「嫌です」

「い、嫌って」

「ここで諦(あきら)めたら、何をやっても駄目になってしまう気がするんです! だから……」

 こんな時、言葉ほど邪魔なものはない。

 初めてフリーフライトを体験したあの時。空の上で感じた想いの全てを、言葉で伝える自信がない。どんなに強い想いでも、必死になって口にするほど、安っぽくて嘘みたいに聞こえてしまう気がして怖かった。

「先生、お願いしますっ」

 私は頭を下げた。今、先生はどんな顔をしているだろう。呆れているのか、怒っているのか。沈黙が怖くて、ぎゅっと目を閉じた。

 しばらくして聞こえてきたのは、堪えきれなくなって吹き出す声。顔を上げると、先生が肩を揺らして笑っていた。

「な、何がおかしいんですかっ」

「いやぁ、ごめん。こんな頼みごとをしてきたのは内野が初めてだったからな」

「私、真剣なんですけど……」

「わかってるよ。真剣じゃなかったら、こんな行動は起こさないだろうから」

 先生は含み笑いながら、カップラーメンの蓋(ふた)を開け、乗せていた割りばしで軽く混ぜ始める。話している内に麺がのびてしまったらしく、カップの中から溢れ出そうになっている。しまったという顔をして、再び蓋(ふた)を閉じた。

「内野を【Pu/t】に選ぶかどうか、正直言うと迷ったんだ。多少未熟な点はあるけど、真面目だし、熱意は伝わっていたからね」

「それでも、決断するには足りない点が多かったんですよね?」

 先生は少し躊躇(ためら)うように、一度だけ頷いた。

「【Pu/t】に選んだからには、俺は指導していかなければならないし、個別に記録もつけなきゃならない。たくさん目がついているわけじゃないから、俺が指導できるのはせいぜい2人、多くて3人が限度。その3人目にいたのが内野だった」

「限度である3人目を抱えて指導するかどうか……だったんですね」

「これでも迷って、悩んで出した結果だったんだ。それをお前は――」

 どうしてくれんだと言わんばかりに、先生は溜息混じりに笑った。

「内野は、諦(あきら)めたくないんだな?」

「はい。あの時こうしていればよかったって、後悔したくないんです」

「んー……わかった。今回は特別に受け入れるよ」

「……えっ!」

 私は思わず立ち上がっていた。その拍子に、膝が硝子のテーブルに思いっきりぶつかった。あまりの痛さに息が詰まって、しばらく言葉が出てこなかった。

「だ、大丈夫かっ!?」

「へ、平気です……それより、さっきの。もしかして【Pu/t】に?」

「最初に言っておく。【Pu/t】になれたからといって、資格試験に受かるわけじゃないってことは覚えておくように。そこは自分の実力だからな。それでもよければの話だ」

 よろしくお願いします――そう言って頭を下げたつもりだったのに。

 緊張や焦り、不安や悔しさ。色々なものが消えて、緩(ゆる)んでホッとしたせいなのか。気づけば、小さな子供みたいに号泣していた。

第10回

❉❉❉❉  Ⅳ  ❉❉❉❉

 

 バスを降り、上士幌高校の校門前で足を止めた。見慣れた校舎を前に安堵(あんど)しながら、私は苦笑いと共に盛大な溜息をついた。

「なんだか、ようやく帰ってきたって感じがする……」

「内野、緊張してたからね」

 隣にいる宮嶋君は、会場にいた時の私でも思い出したのか、ククッと含み笑った。

 その日、私と宮嶋君は部活を休んで【Pu/t】の講習会に行っていた。これに参加するということは、念願の【Pu/t】になれたという証そのもの。気合を入れて会場へ向かったものの、着いたとたんに喜びは緊張に変わった。

 必要最低限のことはノートに書き取ったけれど、しっかり聞き取れていたのかどうか、正直言って自信がない。

「ただの講習会なんだから、緊張する理由がないのに」

「それはそうだけど……高校生なんて私と宮嶋君だけだったじゃない。他はみんな、大人の人ばっかり」

 部活同様、講習会の参加者が男性ばかりだったせいか、その場の雰囲気にのまれて何が何やら。意味もなく緊張してしまった。

 そんな私とは違い、宮嶋君は相変わらずあっけらかんとしていた。仕舞には「楽しかったね」なんて、はしゃいでいたくらいだ。

「宮嶋君は余裕そうだね。緊張したことないでしょ?」

「言われてみれば、そうかもしれない。まぁ、緊張し過ぎても良いことないからね。適度に力抜いた方が、良い結果出たりするし」

 この宮嶋という人物が未だによくわからない。突けば揺れるゼリーみたいな、常にのんびりフワフワした空気を纏(まと)っていて、発言もやる気があるのかないのか読み取れない。

 一見すると不器用にも思えるその言動も、おそらくは相手を欺(あざむ)いているだけ。勉強も運動も、そして部活も。何かを始めれば周りが気づかない内にサラッと、涼しい顔をして何でもやってのけてしまうのが、羨(うらや)ましくも腹立たしい。

「私、宮嶋君みたいに、どんなことがあっても緊張しない鉄のような心臓が欲しいわ」

「んー。正直言うと、俺もちょっとは緊張したんだよ?」

 宮嶋君はヘラヘラ笑いながら、いつになく弱気な言葉を口にした。

「今までは何となく、資格取れたらいいなって、漠然としてたでしょ。でも、講習会に出て、本当に試験受けるんだなって。やっと実感した気がする」

「そうだよね。嫌でも意識させられたよね」

 今まではずっと遠くにあって、肉眼でさえ見えるか定かではない目標を、無我夢中で追いかけていただけ。それが今日一日ではっきりと見えた。何が何でも、そこへ辿り着かなければ。そんな義務感みたいなものが、体のどこかに入り込んだ気がする。

「なんか、急に不安になってきちゃった……ねぇ、宮嶋君。これから何か予定ある?」

「特にないけど。それがどうかした?」

「立ち上げの手順、ちょっとだけ練習してから帰らない?」

「そんなの、いつもやってるでしょ」

 今更って顔をされて、少しだけムッとした。それを楽しむみたいにニヤついているから、同じようにニヤリと返した。

「そういう慣れがミスに繋(つな)がることもあるんだよ? 失敗は少ない方がいいでしょ? だからね、お願いっ」 

「んー……わかった。じゃあ、少しだけ」

 30分という約束で、私と宮嶋君は倉庫へ向かった。

 中は相変わらず薄暗くて、冷蔵庫みたいに冷えている。外気温との温度差に身を震わせながら、倉庫の奥に置かれたバスケットに駆け寄った。

 私と宮嶋君が講習会に行っている間、今日はどこを飛んだのだろう。どこに降りたのだろう。微かに漂っている土の匂いに、ふと、そんなことを想像した。

「内野は、どうしてパイロットになりたいって思ったの?」

 バスケットの中に入ろうとしたところで、宮嶋君は唐突に訊ねた。私は半分ほど身を乗り出したまま振り返った。

「どうしたの、急に」

「いや、何となく。そういう話、聞いたことなかったなぁと思ってね。ほら、内野ってここの出身じゃないし。どうしてかなって」

「……うん。きっかけは、色々あったんだけどね」

 バスケットに足をかけ、ぴょんと飛び越えるように中に入った。降り立った時の足音が倉庫内に反響して、微かに空気が震えたのがわかった。

「お父さんがこの町の出身でね。小さい頃からよく遊びに来ていたから、熱気球も乗ったことがあって。引っ越すことが決まって高校を探していた時に、この部活を見つけたの」

「それが理由?」

「ううん、まだその時は考えてもいなかったよ。せっかく十勝に住むんだから、他ではできないことしたいなって。入部するまでは、その程度の興味だったの」

 それ以上のものなんてなかった――はずだった。

 全てを変えたのは、あのフリーフライト。銀色の朝陽も、真っ白な雪原も、痛いほどに澄んだ空気も。ほんの数分足らずの間に、一瞬にして脳裏に焼きついて離れなくなった。

「どうでもよくなっちゃったんだよね」

「どうでも?」

「初めてフリーフライトを体験した時ね。景色を見て、色々悩んでいたことがね、本当にどうでもよくなっちゃったの。あの時ね。パイロットの資格、絶対に取りたいって思った」

「同じだね」

 きょとんとする私に、宮嶋君は気恥ずかしそうに笑った。

「俺も、内野と同じ。俺も上で景色見て、どうでもよくなった」

 そう言って、バスケットの縁についていた土埃(つちぼこり)を静かに払い落とした。

 宮嶋君が今、何を思い浮かべて、何を見ているのか。たったその一言でも、私には十分にわかった。きっと彼の脳裏では、バーナーの吹き上がる音が響いて、眼下に広がる雪原が浮かんでいるはず。もしかしたらデントコーン畑か、黄金色の小麦畑かもしれない。

「宮嶋君はいつ?」

「俺も中学3年の時。俺の父さん、パイロットの免許持ってるから、夏と冬はパイロット仲間と集まって飛ばしてるんだけどさ。俺が進路とか部活のことで色々悩んでた時に、父さんが乗ってみないかって。でも最初は拒否してた」

「どうして?」

「多分、悩み過ぎて疲れて、ストレス溜まってたのかな。パイロット仲間と楽しそうにしてる父さんを見るのが、面白くなくてさ。ずっと反抗して馬鹿にしてた。あんなの何が面白いんだって」

「それなのに、乗ったの?」

「うん、最終的には乗っちゃったね」

 自分のことなのに、まるで他人事みたいな口振りで言って腕を組んだ。

「そんなに馬鹿にするなら乗ってみろって言われて。じゃあ乗ってやるよって、勢いで何年か振りに乗ったんだ。そうしたら、見事にやられた」

「空から眺める景色、本当に綺麗だものね」

「うん。夏もいいけど、やっぱり冬が最高に綺麗だよね。一面真っ白でさ」

 きっと、自分の目で見た者にしかわからないかもしれない。

 あの衝撃にも似た感動も、キンッと張り詰めて痛いくらいに澄んだ空気も。あの場所で、あの高さで見るからこそ意味がある。

 地上からは決して見ることのできないあの光景は、きっと、迷って立ち止まった者を変えてくれる力があるのかもしれない。だから私も宮嶋君も、あの空の景色に惹(ひ)かれてしまったのだと思う。

「宮嶋君。パイロットの免許、絶対取ろうね」

「それは当然として、その前にやること山積みなんだけどね」

「そ、そうでした」

 飛ぶだけで済むならどんなに楽だろう。

 操縦テクニックから物理化学、航空法や気象学など、筆記試験に向けての勉強に加え、単独飛行に実技試験。

 上条先生曰(いわく)く、実技試験を担当する気球連盟のベテランパイロットは、鬼教官として恐れられている人物だという。本番はこれから。私と宮嶋君の前には課題が山積みだ。