天穹のバロン

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2016/12/31

第1回

| by kida

❉❉❉❉  Ⅰ  ❉❉❉❉

 

 廊下を行き交う生徒たちの声に、放課後のチャイムが重なり合う。

割れるように響くその音に顔を顰(しか)めながら、私は職員室の前で足を止めた。ドアに貼られたデスクの配置表を目と指で追い、先生の名前と位置を確認してからドアを押し開けた。

「し、失礼します」

 勢いに任せて開けたものの、少し緊張しているせいか声が上ずった。それが恥ずかしくなって、俯(うつむ)き気味に足を進めた。

 入り口から真正面に見える、日当りのいい窓際の席。色白で黒縁眼鏡をかけた、少しばかり童顔の先生が座っている。古典担当の上条先生だ。

 何か難しいことでも考えているのだろうか。眉間(みけん)にシワを寄せてパソコンの画面を睨(にら)み、カタカタとキーを叩いている。

「あの……上条先生」

 様子を窺いながら声をかけると、猫背気味になっていた背をピンと伸ばして、こちらへ顔を向けた。

「内野か。どうした?」

「これ、提出しに来ました。よろしくお願いします」

 差し出したのは【入部届】。受け取った先生は、それを目にするなり「おっ」と、興味深げな声を上げた。

「うちの部活、かけもちが条件だけど大丈夫か? もう一つの部活は?」

「書道部にしようかと思っています」

「そうか。でも、いいのか? うちの部活、朝早いぞ?」

 と、からかうようにニヤリとされた。だから苦笑いを返した。

 正直言って、早起きはあまり得意ではない。朝ご飯を抜いてでも、ギリギリまで寝ていたいくらいだから。それでも、私がやりたいと思って選んだことだもの。どうにでもなる。いや、どうにかしてみせる。

「だ、大丈夫です」

「まぁ、最初はキツイだろうけど、すぐに慣れるよ。色々準備もあるだろうし、土曜から開始ってことで。朝6時に校舎前に集合」

「わかりました」

「それじゃ、これからよろしくな」

 そう言って、先生は机の端に立てかけていたファイルに手を伸ばした。【上士幌高校熱気球部】と書かれたそのファイルに、私の入部届がしっかりとおさめられる。

 パタンッと閉じられたその瞬間、私の抱いた夢が音をたてて動き出したように思えた。

 

 

❉❉❉❉

 

 私の日常が慌(あわ)ただしく変化したのは、半年前のことだった――

 

「えっ、北海道!?

 私の声は思いのほか大きく、リビングに反響した。

 食事の最中、何の前触れもなく父の口から告げられたのは、引っ越しが決まったという事実だった。テーブルを挟んだ向かいの席に座っている両親を、私と弟の歩(あゆむ)はただ呆然と見つめていた。

「それで……北海道のどこに転勤になったの?」

「いや、今度は転勤じゃないんだ」

 言いよどんでから、父と母が顔を見合わせた。言いづらいことでもあるのか。その表情を見て、不安がジワリと体の中に広がっていく。

「もう何年も前から考えていたことなんだ。今の仕事を辞めて、爺ちゃんがやっている建設会社を手伝おうと思っているんだ」

「それ、もう決まったことなの?」

 私の問いに、父はゆっくりと頷いた。その仕草が、私の不安を煽(あお)った。

「爺ちゃんにも、ずっと前から戻ってきてほしいって言われていてね。ちょうど、莉緒(りお)は高校受験だし、歩は中学にあがる。向こうへ行くのは、この時しかないだろうって思っていたんだ」

「住む場所はしばらくの間、お爺ちゃんの家にお世話になろうかって、話になっているの」

「えっ! お爺ちゃんと一緒に暮らせるの?」

 母の話に、歩は声を弾ませて喜んだ。相変わらず呑気というか。私とは違って楽観的な性格だから、なおさらかもしれない。

「姉ちゃん、北海道だよ。北海道!」

「歩、嬉しそうだね」

「姉ちゃんは嬉しくないの?」

 私は肯定も否定もできず、誤魔化すように味噌汁をすすった。

おそらく、旅行にでかけるような感覚なのだろう。いつものパターンだと「友達と離れたくない、新しい学校で友達ができるかどうかわからない」と、後になって駄々をこねるのは目に見えている。喜んでいられるのも今のうちだけだ。

「歩。今の状況、わかってるの?」

「わかってるよ。北海道に引っ越すんでしょ?」

「そう。でも、今までとは違うの。ずっと住むことになるのよ」

 少し投げやりに言って、残りのご飯を口一杯に頬張った。

 北海道にある上士幌町に住んでいる父方の祖父母の家には、毎年のように遊びに行っていた。どこに何があって、どんな景色が広がっているのか。今もそこに住んでいるみたいに、手に取るようにわかる。

多少の心配はあっても、祖父母のいる町だし、初めての地ではないだけマシかもしれない。ただ、遊びに行くのと引っ越すのとでは訳が違う。一時を過ごすのではなく、おそらくは永住。はいそうですか、と、素直に受け入れられるものではない。

「……私、志望校も決めてたし、友達と一緒に行こうって約束もしてたのに」

「そのことは、悪いと思ってる。莉緒、ごめんな」

 父は頭を深く下げた。その姿を見ていられなくて、私はぎゅっと目を瞑(つぶ)った。

 言いたいことはたくさんあった――どうして決める前に相談してくれなかったのか。どうして今なのか。全てをぶつけてしまいたい衝動にかられても、それはほんの一瞬。

ここで私が騒いだところで、この事実が変わるわけでも、引っ越しが白紙に戻るわけでもない。子供みたいなわがままをぶつけられる歳でもないし、何より両親を困らせたくはなかった。結局、言葉として吐き出す前に感情が鎮まっていった。

「うん……わかった。高校は、向こうで受けられそうなところ探してみるね」

「莉緒、ありがとな」

「決まっちゃったことだもん、仕方ないよ。間に合わなくなる前に準備しないとね」

 私は早々に食事を済ませて部屋に戻った。

 それからしばらく、何も考える気にならなかった。椅子に座るわけでもなく、ただドアに寄りかかったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。

「北海道、か……」

 転校も引っ越しも、これが初めてではない。

父の仕事の都合もあって23年の間隔で各地を転々としていた。中でも、東京での生活は5年目。仮に転勤になったとしても、高校受験を控えた私を連れて行くわけがない。そう高を括(くく)っていただけに、意外とショックは大きかった。

仲良くなった友達と離れることも、住み慣れた町を出ることも、最初の頃は嫌だったけれど、数を重ねる内に、気づけば慣れていた。「また移動するのね」と、割り切れるくらいには心が動かなくなっていた。そんな私が、小さい頃に捨てたはずの想いを久々に味わって、戸惑っている。

仕方ない――そうは言ったものの、完全に割り切れたわけではなかった。それでも今は行動するしかない。渋々机に向い、力なく椅子に座った。

パソコンを起動し、立ち上がるのを待ちながら、傍に置いてあった携帯を手に取った。開いたのは電話帳。並んだ友人たちの名前をつらつらと眺め、その途中で目に留まった“瑠璃”の名前に胸が痛む。

同じ高校へ行こうと約束をしていたのに、北海道へ引っ越すことになったと言ったら、瑠璃はどう思うだろう。裏切り者だと思うだろうか。嫌われはしないだろうか。そんなことばかりが頭の中を巡っていた。

「……何て言ったらいいのか、思いつかないよ」

 直接会って話す前に連絡しておこう。電話がいいだろうか、メールがいいだろうか。色々考えてはみたものの、上手く説明できるだけの言葉が見つからず、結局、電源を切った。

 何を言われてもいい。瑠璃には、後で何度でも謝ろう。今は、目の前にある現実を受け入れて、行動することが最優先だった。

「高校探すって言っても……私、何も知らないんだよね」

 知っていても、せいぜい観光地くらいだ。住むという目的で調べたことはないから、知っているようで何も知らないのが現状だった。

 とりあえず、私が住むことになる【上士幌町】で検索をかけてみた。トップに表示されたのは、旅行者向けのサイトや町が運営しているホームページ。ナイタイ高原牧場をはじめ、アーチ橋ツアーの案内や写真が大きく掲載されている。

 観光協会のサイトから、個人のブログで紹介された旅行の記事まで、様々な情報が溢(あふ)れるその中で“上士幌高校熱気球部 バルーン・フェスティバルで総合優勝”の文字が目に留まった。

 夏と冬の年2回、上士幌町で開催される熱気球の大会のことだ。全国各地から集まる熱気球のチームを押し退けて、高校生のチームが優勝したという記事だった。

上士幌高校――キーボードに置かれていた指は、無意識のうちにその文字を打っていた。

「へぇ、熱気球部なんてあるんだ。高校にこの部活があるのって、北海道ではこの高校だけなんだね」

 熱気球部……どんなことをする部活なんだろう。最初はほんの少しの興味だった。身近ではないものへの好奇心、ただそれだけだった。

 熱気球なんて、ただ飛ばしているだけだと思っていたけれど、得点を競うための競技種目が幾つもあって、それには高い操縦テクニックが必要になるらしい。

 上士幌高校熱気球部にはパイロットを目指す学生もいて、卒業生の中には在学中に取得した学生もいたみたいだ。その生徒に密着取材をしたドキュメンタリーが放送されていたり、地方局のテレビ番組が、何度か部活の取材にも来ているようだった。

「熱気球部かぁ……ちょっと面白そう。せっかく北海道に引っ越すんだから、他ではできないことしたいよね」

 再び高校のホームページへ戻り、部活紹介のページに掲載された写真をクリックした。

夏の青空に飛び立つ熱気球を背景に、広大な緑の平原に笑顔で立つ部員たちの写真を目にした瞬間。私は瞬きをするのも忘れて、画面を見つめていた。神経や意識、思考や行動、あらゆるものがそこに吸い寄せられて、根こそぎ奪い去られたような、そんな感覚に近い。

「そっか、あの時の――」

 どこまでも高い青空

遥か地上に見える町

 頭上で響くバーナーの音

断片的な記憶が一瞬で脳裏を駆け抜けた。

小学校にあがる少し前、父と一緒に熱気球に搭乗したことがあった。怖かったのか、楽しかったのか。あの時に味わった感情が何だったのか、小さかった私にはわからなかった。でも、やっとわかった気がする。

圧倒されたんだ――あの音と、風と、景色に。

 私は画面に手を伸ばし、表示された熱気球部の写真に指先で触れた。その時、ゴオォッと吹き上がるバーナーの音が、耳の奥で聞こえた気がした。
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