天穹のバロン

2023年7月の記事一覧

第11回

❉❉❉❉

 

 その日のバーナーの音は、いつになく喧(やかま)しく聞こえた。

 焼き鳥やフランクフルトの焼ける匂いと、小さな子供たちがはしゃぐ声、輪唱のように鳴り響く無数のバーナーの音が、風に乗ってどこからともなく流れてくる。漂うお祭りムードにはしゃぐ部員たちの中で、ただ一人、私だけが苦々しい顔をしていた。

「ちょっと緊張してきた……」

「本当、内野って上がり症だよね」

 インフレーターに寄りかかって項垂(うなだ)れる私を見て、宮嶋君は他人事のように笑った。

 ここは高校のグラウンドでもなければ、どこかのジャガイモ畑でもない。上士幌町で毎年開催されている熱気球の大会【バルーン・フェスティバル】の会場に来ていた。もちろん、遊びに来たわけではない。今日、ここで行われる大会に参加するためだった。

「俺も内野も、今回は搭乗するわけじゃないんだからさ。緊張するのは笠原さんの役目だと思うけど?」

「それは、そうなんだけど。今日は部活とはわけが違うでしょ? 大会だし、競技なんだもん。余計なことして足引っ張ったらどうしようとか、考えちゃって……」

「そう思うからミスするんだよ?」

「わかってます」

 投げやりに返して、私はインフレーターを起動させた。ブロロロッとエンジンがかかって、プロペラがゆっくりと加速していく。球皮の開口部に風が流れるよう向きを調節している間、あちこちで立ち上げの準備をしている参加チームの熱気球が目に留まった。

 色はもちろん形状も様々で、変わったものだと、シャンパンのボトルに目と口、手足が生えたキャラクターものまである。

 全国各地から集まったその熱気球を操縦するのは、貫録のある年配のパイロットから大学生パイロットのお兄さんたち。その中でも、高校生の参加は上士幌高校だけだった。

 不利に思えるこの状況でも、数年前には上士幌高校熱気球部が優勝しているのだから、今年だって可能性は十分にある。その瞬間に立ち会うことができるとしたら、やはり地上ではなく空がいい。

「やっぱり、搭乗したかったなぁ」

 インフレーターの後ろで呟いたその言葉は、激しく回転するその渦に呑まれ、少しひび割れた音になって跳ね返ってくる。

 きっと誰にも聞こえていないだろうと思っていたのに、傍にいた宮嶋君には聞こえていたらしい。「俺も搭乗したかったよ」と、さり気なく呟いていた。

「宮嶋君も?」

「うん、まぁね」

「そうだよね。パイロット目指している身としては、ちょっと複雑な想いもあるよね」

 うんうんと、宮嶋君は何度も首を縦に振った。

 今日の大会にはチームとして参加しているものの、熱気球に搭乗するのは、パイロット免許を持つ上条先生と部長の笠原さん。残りの部員たちは飛び立った熱気球を追走して、地上から状況を伝えるのが役目。当然の配役ではあるけれど、せめて笠原さんの補佐として同乗したかった。

「部活とは状況が違うし、度胸もつくと思うんだよね」

「こういう雰囲気に慣れておいて損はないよね」

「だから、地上からっていうのがね……」

「そうは言っても、下からの指示も大切なんだからな」

 何の前触れもなく、会話に声が割り込んだ。

驚いて振り返ったとたん、そこに立っていた笠原さんにレシーバーを突きつけられた。条件反射で受け取ると、なぜか不敵な笑顔を返された。

「受け取ったな?」

「えっ。受け取りましたけど……」

「よし。連絡役は内野に決まり」

「えっ!?」

 押しつけられたレシーバーが鉛みたいに重く感じて、受け取った傍から宮嶋君に放り投げた。当然、宮嶋君がそれを素直に受け取ってくれるわけがない。意地悪そうなニヤケ顔で、逃げるなと言わんばかりに私につき返した。

「笠原さん、私、無理ですっ。ここにいるだけで緊張してるのに。間違ったこと言っちゃったら、もう泣きます」

「これも経験。内野、よろしくな」

 呆然とする私の肩を叩いて、笠原さんはさっさとバスケットに乗り込んでしまった。

 風を読んで操縦する笠原さんのプレッシャーに比べたら、地上での状況を伝える役目のほうがマシ。これといって特別なことはない。今まで部活でやってきたことをやればいい。わかっていても、一度膨らんだ緊張はなかなか萎んではくれない。

波を打って、左右にゆらゆらと揺れながら球皮が膨らむにつれて、私の緊張も少しずつ膨らんでいく。

 準備は着々と進み、他のチームは一足先に飛び立っていった。風の流れ、先に飛んで行った熱気球の動きを見ながら、上条先生と笠原さんは飛び立つタイミングを見計らっていた。

「先生、そろそろ行きましょうか」

「そうだな。ターゲットはどこにする?」

「この流れだと【A】がいいと思います」

「了解。いい風のながれが掴(つか)めるように、皆もサポート頼んだぞ」

 いよいよ競技が始まった。

 先生と笠原さんを乗せた熱気球は、フワリと、滑るように空へと飛び立った。上昇するその様子を見送り、すぐさまワゴン車に乗り込んで後を追った。

 レシーバーを託された私は、状況を見やすい助手席に座った。真後ろに乗った宮嶋君が、運転席と助手席の間から身を乗り出した。

「内野、ターゲットの【A】ってどこだっけ?」

「高校のグラウンドだよ。ここからだと、南の方角になるね」

 ポケットに折り畳んで入れていた地図を取り出し、宮嶋君に見えるよう広げた。

 大会と名がつくのだから、飛ばすだけで終わりではない。それぞれのチームが得点を競い、勝敗を決める競技。

 競技の種類はいくつかあって、離陸ポイントやターゲットの設定方法などで異なる。その中でも、今年の競技は【パイロットデグレアドゴール】。競技委員会が町の中に複数のターゲットを設置して、競技者はその中の一つ選んで飛んでいく。

 ターゲットには目印となる【×】印があり、競技者はマーカーと呼ばれる砂袋をその印に向かって投下する。より中心に近い場所へ投下することができたチームが優勝となる。

 操縦テクニックはもちろん、冷静に状況を判断できる力も必要不可欠。あとはターゲットへ向かう風を、上手く見つけられるかどうかにかかっていた。

「他のチーム、けっこう流されてるね」

 助手席のサイドミラーに、宮嶋君が窓の外を見上げている姿が映っている。私は窓を開け、同じように空を見上げた。

 部の熱気球よりも一足先に飛び立った他のチームは、各ターゲットとは大きく離れた方角へと流されていた。高校へ向かう途中も、定めたルートから外れてしまい、戻る風を見つけることができず、断念して着陸している熱気球をいくつか見かけた。

 風の流れは高さによって異なる。飛び立った直後は東へ向かって流れていても、その数メートル上空には逆方向へ流れる風の層がある。目に見えない風の流れを上手く見つけることが、この競技の勝敗を分けることになる。

「うちの部の気球は?」

「今のところは順調みたいだね」

 ターゲット【A】が設置された上士幌高校のグラウンドへ到着した私たちは、こちらに向かっている部の熱気球を不安な想いで見つめた。

「笠原さん、状況はどうですか?」

 ほんの少し震える手でスイッチを押し、レシーバーに向かって声をかけた。数秒ほど遅れてザザッと雑音が混じり、ゴォッとバーナーの音が聞こえた。

『今のところは、真っ直ぐポイントに向かってる』

「了解です」

『このまま進めそうだから、とりあえず状況見るよ』

 交わしたのは、たったそれだけ。すぐに通信が切れ、私と宮嶋君は空を見上げた。

 現在、ターゲットまで一直線の位置にいる。このまま風の流れが変わらなければ、確実に高得点を狙えるはず。今できることは、風の流れが予期せぬ方向へ吹かないことを祈るだけだった。

 それから15分ほど経った頃だった。

 ゆっくりと漂うように進んでいた部の熱気球は、マーカーを投下するため高度を下げ始めた。慎重に、確実に。逸(はや)る思いを押えつつ、見守っていた矢先のことだった。

 順調に真っ直ぐ向かってきていた熱気球が、高度を下げたとたんに東の方角へ流され、ターゲットから大きく逸れていく。

「内野、なんかマズイよね?」

 宮嶋君の声は、心なしか焦っていた。

 このまま進んでしまえば、戻れなくなる――私はすぐに通信を繋(つな)いだ。

「笠原さん、流されてませんか?」

『――今、高度上げた。このすぐ下を流れている風が違うから、ポイントに近づくのが難しいかもしれない。ちょっと別の風、探すよ』

 ジジッと音が響いて、笠原さんは通信を切った。それから間もなく、部の熱気球は再び上昇していく。私は地図を広げ、そこに熱気球の現在地と風向きを書き込んだ。

「宮嶋君。今、うちの気球はこの辺りかな?」

「多分ね」

「今の高度はターゲットに向かっている風が流れているけど、その下の風は東に向かって流れてるよね」

「西に流れる風があればね。一度その風に乗って、一気に高度下げて東の風に乗ることができれば、ターゲットに戻れるかもしれないのに。まぁ、そんな都合のいい風なんてないと思うけどね」

 風の流れを見るために風船を飛ばしたとしても、見える距離には限界がある。こういう時、風の流れが目に見えればどんなに便利だろうか。あり得ないことだとわかっていても、思わずにはいられなかった。

「笠原さん、上手く見つけてくれればいいけどね」

「でも、早く風見つけないと、ターゲットを通り過ぎて――」

 地図に向けていた視線を空へ上げた時だった。

 部の熱気球の遥か上空に、一機の熱気球が飛んでいるのが見えた。それがゆっくりと、部の熱気球とは真逆の方角に流れているように見えた。

「ねぇ、宮嶋君。あの熱気球、西に流れてない?」

「どれ?」

「あれ。うちの部の熱気球より、上にある銀色の球皮の」

「……あっ、本当だ!」

 早く伝えなければ――その想いが先走って、焦りからレシーバーのスイッチが上手く押せない。手から落としそうになりながら通信を繋(つな)いだ。

「笠原さん! 上にある銀色の球皮の熱気球、見えますか?」

『上?』

 一言だけ返して、しばらく沈黙が流れた。おそらく、地上から見えているその熱気球の姿を探しているのだろう。その沈黙がやけに長く感じた。

「笠原さん、どうですか?」

『ごめん。ここからは見えない』

「その熱気球、西の方に流れているんです。一度その風に乗ってから、ターゲットに戻ってくることって、できそうですか?」

『――わかった。ちょっと試してみる』

 通信が切れる瞬間、レシーバーの向こうでバーナーの音が聞こえた。

 それから間もなく、部の熱気球はさらに上昇。その狙い通り、西へ吹く風に乗って移動を始めた。そこから高度を一気に下げて、東へ吹く風に乗ればターゲットへ戻ってくるはずだ。

 焦る想いとは裏腹に、その日の空はどこまでも澄んで、いつもより穏やかだった。ジリジリと照りつける陽射しと、重なり合う蝉の声が、やけに熱く、煩く聞こえた。

 大丈夫、きっと大丈夫。けれど、そう祈る瞬間は、ほんの少し遅かったのかもしれない。

『ちょっと難しいかもしれない』

 レシーバーから聞こえたのは、いつになく弱気な笠原さんの声だった。

 西の風に乗り、高度を下げて東の風を確実に捉え、部の熱気球は再び高校のグラウンドへと戻ってきたものの、ターゲットの印から南へ50メートルも流されてしまっていた。

 最後の最後まで、笠原さんは諦(あきら)めずに粘っていたけれど、再び上昇して、ターゲットへ戻る風を見つけるのは難しいと判断したらしい。結局、ターゲットから100メートル離れた先に着陸。マーカーを投げることもできず、その年の大会は記録なしという結果に終わってしまった。

第12回

「お疲れ様でした」

「ありがとな」

 声をかけた私に、笠原さんは申し訳なさそうに笑って言った。礼を言われたはずなのに、その声がどこか寂しげだったせいか、謝られたように思えた。

「私、何もできませんでしたけど……?」

「そんなことないよ。後悔しないで、最後まで飛ばせてよかった」

 笠原さんは手にしているマーカーに視線を落とした。

 最初は強がりを言っているのだと思った。悔しさや苛立ちを誤魔化そうと、自らに言い聞かせる呪文みたいに――私の想像に反して、マーカーを見つめる笠原さんの目は、後悔よりも無事に終わったことに安堵(あんど)しているようだった。

「高度を下げてルートから逸れた時、諦(あきら)めてたんだ。たくさん練習して何度も飛ばしてると、直感でわかるっていうか。無理だなって思ったんだ」

「でもあの時、別の風を探すって言ってましたよね。あの時、諦(あきら)めてたんですか?」

「うん。結果は残せなかったけど。あれ見つけてくれたから、できるところまでやろうって思い直せた」

 見上げた先には、風の流れを教えてくれたあの銀色の熱気球。広大な青空を独り占めするみたいに悠々と飛んでいる。

「内野、ありがとう」

「いいえ。どういたしまして」

 その言葉がじわりと広がっていく。

 少しだけ泣きたくなるような、でも安心したような。そんな不思議な感覚だった。

 

❉❉❉❉

 

 その日の夕方。

 大会を終えた私と宮嶋君は、2人だけの“お疲れ様会”兼“反省会”をすることにした。

 場所は【神社公園】。上士幌町で最も見晴らしの良い高台に神社があり、その傍に設けられている。

 あまりにも的確に場所を示すような名前だから、それが本当の名称なのかと訊ねると、宮嶋君には「わからない」と即答された。話によれば、神社の傍にある公園だからそう呼ばれていると言っていたけれど、どうにも怪しい。ただ、子供たちの間では、その名前で通っているのは確かだそうだ。

「お疲れ様」

「んー、お疲れ」

 公園内で一番の高さを誇る滑り台に上ってジュースを開けた。私はミルクティー、宮嶋君はコーラ。カチッ、プシュッと音がして、ほんのり甘い匂いが鼻先を掠(かす)めた。

 赤に近い夕日が日高山脈の向こう側に沈み始める様子を眺めながら、疲労が混じる溜息を同時についた。

「今日、惜しかったね」

「だね。あと少し早く気づいていれば、結果は違ってたかもしれないね」

 思い出したのは、笠原さんの笑顔だった。

 笠原さんは“ありがとう”と言ってくれた。ただ、あれが本心だったのか、私にはわからない。嘘をつく人ではないけれど、あの時だけ、余計な気を使わせないようにしてくれたとも考えられる。

「本当に、あれでよかったのかな……」

「俺も内野も大会は初参加だからね。何が良くて何が悪いのか。判断するには経験不足だよ。まぁ、来年頑張ればいいんじゃない?」

「その時は下じゃなくて、上がいいね」

「当然」

 そう言った直後。宮島君の返事を掻き消すみたいに、突然、バーナーの音が頭上で弾けた。

 ちょっと不気味で可愛い笑顔を浮かべたジャック・オ・ランタンの熱気球が、手が届きそうなくらいの低空飛行で通過していった。確か、今日の大会にも参加していたチームだ。

 搭乗しているパイロットは、まるでサンタクロースみたいに立派な白い髭を生やしたお爺さん。私が手を振ると、お爺さんも手を振り返しながらバーナーを2回鳴らした。その音が空気を震わせ、鳩尾(みぞおち)に響く度に、頭の中で記憶が再生される。

 【Pu/t】に選ばれなくて泣いて、自分の未熟さに気づいて後悔して、笠原さんにかけられた言葉に助けられて――そして今日、地上から見上げる立場に立って、ようやくわかった。

 望んだのは空だった。圧倒される景色と息を呑む感覚を味わいたくて、その領域へ辿り着く手段が欲しくて仕方なかった。今の今まで、それしか見ていなかった。

「欲張り、だったんだよね」

「何のこと?」

「熱気球のこととか、パイロットのこと。私が、自分が――って。前にばかり出ようとしてたんだよね、私」

 全ては“自分が頑張れば、ちゃんとしていれば”と思い込んで、それを疑うことすらしなかった。きっとパイロットへの想いが強過ぎたせいで、見ているつもりになっていただけ。大会に参加して、地上に立って、空を見上げて気づかされた。

「準備も立ち上げも、飛ばすのも、たった一人じゃ無理でしょ? 熱気球を飛ばすのはパイロットの力だけじゃなくて、色んな人の協力があって飛ばすものなんだよね。笠原さんに“ありがとう”って言われて、それを思い知らされた気がして、恥ずかしくなっちゃった」

 “はた(傍)をらく(楽)にする”――笠原さんが教えてくれたあの言葉が、じわりと、心の中で溶けて問い質してくる。地上にいた私は、ちゃんと果たせていたのか、と。本当の意味を理解するには、まだまだ時間がかかりそう。

「あんまり欲張っちゃいけないね」

「いいと思うよ、欲張りで」

 清々しいくらいに、宮島君はきっぱりと答えた。相変わらず他人事な台詞に吹き出してしまった。

「いいの?」

「多少の欲がないと上達なんてできないって、うちの婆ちゃんが言ってた。あっ、でも、欲が強過ぎても成功しないって言ってたかな」

「どっちなのよ、それ」

「だから、ほどほどがいいんだよ」

 あぁ、そうか。今、わかった気がする。

 口癖のように言っていたその言葉は、単なる癖であって深い意味なんてない、やる気がないだけだと思っていた。きっと、それこそが大きな間違い。

“頑張るけれど頑張り過ぎない”

 周りが見えなくなって空回りしてしまわないよう、軌道修正をしつつ前に進むことができる。そんな力が込められているのだとしたら、案外、素敵な言葉なのかもしれない。

「じゃあ、来年もほどほどに頑張ろうか」

「うん。ほどほどにね」

「でも、来年の大会は私が搭乗するから。そこは譲れないわ」

「それって、ほどほどじゃないんだけど?」

最終回

❉❉❉❉  Ⅴ  ❉❉❉❉

 

 3年目の春。私が初めて部活に出た日と同じように、その日も春の雪が降った。

 風もなく穏やかで、空は雲一つない晴天。肌がヒリヒリと痛むくらい、空気だけが冷えている。そして決まって、そんな朝はとても静かだった。きっと、今日はいつもより高く飛べるだろう。

「宮嶋君。バーナーフレーム、つけるよ。頭、気をつけてね」

「んっ。内野、それ終ったらあっち、様子見てきて」

 ガスボンベを固定していた宮嶋君がバスケットから顔をひょいと覗かせ、グラウンドの方を指差した。球皮を広げ終えた2年生部員3人が、積もった雪で雪合戦の真っ最中だった。

「遊んでるし……」

「だから気合い入れてきて」

「それって部長の仕事じゃないの?」

「内野の方が怒ったら迫力あるし、効果もあるでしょ?」

「何よ、それ」

 その場は宮嶋君に任せ、準備そっちのけで遊んでいる彼らのもとへ向おうとすると――

「内野さーん!」

 見計らったようなタイミングで呼び止められた。

 新入部員の加納さんと藤井さんが、インフレーターの前であたふたしている。目が合うなり「助けて下さい!」と2人で必死に手招きをした。

「どうしたの?」

「これ、どうやって動かすのかわからないんです」

「スイッチも見当たらなくて……」

「あぁ、これはね。ここを思いっきり引っ張るの。その前に球皮とバーナーフレーム、ケーブルで繋(つな)げないとね」

 と、背後を指さす。ガスボンベの固定が終わり、宮嶋君と先生、1年生の部員たちがバスケットを倒し始める。2年生が遊んでいるせいで人手が足りないらしく、手間取っているようだった。

「インフレーターは私がやっておくから、2人は球皮の開口部を持ち上げる作業、頼んでもいい?」

「わかりましたっ」

「あっち、行ってきますね」

 そう言って、2人は駆けて行く。

 去年は部員が5人増えたものの、見事に男子ばかり。結局2年連続で紅一点だった。そして今年、新入部員がさらに6人増え、その内2人は念願の女子部員。加納さんと藤井さんが入ったことで、多少むさ苦しく感じていた部活にも華やかさが増した。

 愛嬌もあって器用な2人は、かけ持ちで入っている家庭部でケーキを作ったからと、私にまで届けてくれることがある。その気遣いがなんとも可愛らしい。

 パイロットを目指す前に、私もこんな愛らしさを身につけておくべきだったと、今更ながら反省していた、そこへ――

「おいっ、いつまで遊んでるつもりだ!」

 私が説教をする前に痺れを切らしたのは上条先生だった。

 基本的に優しい先生は、怒っても優しいのがやや難点。2年生たちも「わかってま~す」なんて軽い返事をしながら、雪合戦続行。

 先生が2年生を追いかけまわしている間に、私はインフレーターを起動した。球皮に風を送り込んで、あっという間に膨らませる。そして新入部員たちは恒例の球皮内見学。はしゃぐ声が球皮の中で反響していた。

「宮嶋、内野。今日はどっちが先に搭乗する?」

 ようやく戻ってきた先生は、少し息を切らしながら訊ねた。

 2回飛ばせそうな日は、搭乗の順番をジャンケンで決める。それが私と宮嶋君のルールになっていた。

 互いに拳を突き合わせ、無言でジャンケン。結果、私がチョキで宮嶋君がパー。

 いつもは宮嶋君が勝つのに、今日は珍しく私が勝った。もしかしたら、今日は雪が降るかもしれない。

「じゃあ、私が先でお願いします」

「わかった。宮嶋は下から指示、頼むな」

 レシーバーを託して、私、上条先生の順にバスケットに乗り込んだ。そして一緒に搭乗するのは加納さんと藤井さん。これは私の指名だった。

 誰にも言ったことはなかったけれど、女子部員が入ったら、私が操縦する熱気球に搭乗してもらうのが密かな願いだった。また一つ、私の願いが叶った。

「内野、準備いいか?」

「はい、いつでも大丈夫です」

「よし。それじゃ、行こうか」

 先生の合図で、バスケットを押さえていた部員たちが一斉に手を離した。熱気球は瞬く間に地上を離れ、吹き上がる炎と風に運ばれ、空へと上っていく。

「うわぁ……足、すくむ高さだね」

「でもすごいよ! あぁ、写真撮りたい!」

 地上を見下ろしながら、怖がったりはしゃいだりする2人の姿は、2年前の自分と重なった。それが懐かしかったり、少しだけ面映かったり。その気恥ずかしさが手にも伝わったらしく、レバーを引くタイミングを誤ってしまった。

「あっ。先生、今のはマズかったでしょうか?」

 その一言で十分に伝わったらしく、先生はバスケットから身を乗り出して地上を見下ろした。

「んー、大丈夫だと思うけど、次は気をつけないとな」

「何かあったんですか?」

 会話を聞いていた2人が、不安そうに訊ねた。こんな足もつかない空の上で、含みのある会話をされたら、誰だって不安にもなる。

「低空飛行している時はね、バーナーの音に気をつけないといけないの。早朝ってこともあるんだけど、特に動物がいる時はね」

 話しているその最中、通りかかったのは酪農家さんの敷地内。ちょうど真下には牛舎があって、柵の中を歩いている数十頭の牛たちが、モーと鳴きながらこちらを見上げていた。

「音にびっくりしちゃうから、注意しないといけないんだよ」

 そう話していた、まさにその時。薄暗かった辺りに光が広がり、銀色の朝陽が昇った。その光景に、2人は瞬きするのも忘れて見つめていた。

 私が初めてここに立って、目にしたあの景色と何も変わらない。

 薄紫色(うすむらさきいろ)の空も、どこまでも広がる白銀の大地も、空に浮かぶ白い残月も。あの時と同じ。何度見ても圧倒され、言葉も感情も掻(か)っ攫(さら)っていく。

「先生、ポイントどこにしましょうか?」

「練習も兼ねて、自分で考えな」

 3年前、笠原さんと先生が交わしていた会話を、今度は私が交わしている。やっとここまで辿り着いたと思う一方で、まだまだ気が抜けないと身が引き締まった。

 先月、筆記試験も無事合格して、実技試験を残すのみ。それを笠原さんに報告すると「あとは鬼教官が待ってる」なんて意地の悪いことを言われたせいで、久々に緊張していた。

 こうなったら、笠原さんよりもいい点を取って試験に合格してみせる。そう思うと、俄然やる気が出てきた。

「内野、落ちてきたぞ。この辺りは電線が多いから、一度上げておけ」

「はい。とりあえずこのまま真っ直ぐ進んで、あの辺りの畑に――」

『内野、どんな状況?』 

 ザザッとレシーバーに雑音が入り、宮嶋君の声が会話に割り込んだ。

 地上を見下ろすと、先回りしていた熱気球部のワゴン車が、細い農道の入口に停車している。助手席からは、こちらを見上げて手を振っている宮嶋君の姿が確認できた。

「今のところは順調だよ。このまま真っ直ぐ進んだ先にある畑、見える? あの古いサイロがあるところ。とりあえず、そのポイントで着陸する予定だよ」

『了解』

 通信を切り、私はレバーを握る手に力を込めた。

「先生、いいですか?」

「やってみな。実技試験での着陸は、合否を左右する重要なポイントになる。気、緩めないように」

「了解です」

 朝陽に目を細めながら、私はレバーを引いた。

 バーナーの音に応えるように、空を飛んでいた鳶が鳴いていた。