天穹のバロン
第1回
❉❉❉❉ Ⅰ ❉❉❉❉
廊下を行き交う生徒たちの声に、放課後のチャイムが重なり合う。
割れるように響くその音に顔を顰(しか)めながら、私は職員室の前で足を止めた。ドアに貼られたデスクの配置表を目と指で追い、先生の名前と位置を確認してからドアを押し開けた。
「し、失礼します」
勢いに任せて開けたものの、少し緊張しているせいか声が上ずった。それが恥ずかしくなって、俯(うつむ)き気味に足を進めた。
入り口から真正面に見える、日当りのいい窓際の席。色白で黒縁眼鏡をかけた、少しばかり童顔の先生が座っている。古典担当の上条先生だ。
何か難しいことでも考えているのだろうか。眉間(みけん)にシワを寄せてパソコンの画面を睨(にら)み、カタカタとキーを叩いている。
「あの……上条先生」
様子を窺いながら声をかけると、猫背気味になっていた背をピンと伸ばして、こちらへ顔を向けた。
「内野か。どうした?」
「これ、提出しに来ました。よろしくお願いします」
差し出したのは【入部届】。受け取った先生は、それを目にするなり「おっ」と、興味深げな声を上げた。
「うちの部活、かけもちが条件だけど大丈夫か? もう一つの部活は?」
「書道部にしようかと思っています」
「そうか。でも、いいのか? うちの部活、朝早いぞ?」
と、からかうようにニヤリとされた。だから苦笑いを返した。
正直言って、早起きはあまり得意ではない。朝ご飯を抜いてでも、ギリギリまで寝ていたいくらいだから。それでも、私がやりたいと思って選んだことだもの。どうにでもなる。いや、どうにかしてみせる。
「だ、大丈夫です」
「まぁ、最初はキツイだろうけど、すぐに慣れるよ。色々準備もあるだろうし、土曜から開始ってことで。朝6時に校舎前に集合」
「わかりました」
「それじゃ、これからよろしくな」
そう言って、先生は机の端に立てかけていたファイルに手を伸ばした。【上士幌高校熱気球部】と書かれたそのファイルに、私の入部届がしっかりとおさめられる。
パタンッと閉じられたその瞬間、私の抱いた夢が音をたてて動き出したように思えた。
❉❉❉❉
私の日常が慌(あわ)ただしく変化したのは、半年前のことだった――
「えっ、北海道!?」
私の声は思いのほか大きく、リビングに反響した。
食事の最中、何の前触れもなく父の口から告げられたのは、引っ越しが決まったという事実だった。テーブルを挟んだ向かいの席に座っている両親を、私と弟の歩(あゆむ)はただ呆然と見つめていた。
「それで……北海道のどこに転勤になったの?」
「いや、今度は転勤じゃないんだ」
言いよどんでから、父と母が顔を見合わせた。言いづらいことでもあるのか。その表情を見て、不安がジワリと体の中に広がっていく。
「もう何年も前から考えていたことなんだ。今の仕事を辞めて、爺ちゃんがやっている建設会社を手伝おうと思っているんだ」
「それ、もう決まったことなの?」
私の問いに、父はゆっくりと頷いた。その仕草が、私の不安を煽(あお)った。
「爺ちゃんにも、ずっと前から戻ってきてほしいって言われていてね。ちょうど、莉緒(りお)は高校受験だし、歩は中学にあがる。向こうへ行くのは、この時しかないだろうって思っていたんだ」
「住む場所はしばらくの間、お爺ちゃんの家にお世話になろうかって、話になっているの」
「えっ! お爺ちゃんと一緒に暮らせるの?」
母の話に、歩は声を弾ませて喜んだ。相変わらず呑気というか。私とは違って楽観的な性格だから、なおさらかもしれない。
「姉ちゃん、北海道だよ。北海道!」
「歩、嬉しそうだね」
「姉ちゃんは嬉しくないの?」
私は肯定も否定もできず、誤魔化すように味噌汁をすすった。
おそらく、旅行にでかけるような感覚なのだろう。いつものパターンだと「友達と離れたくない、新しい学校で友達ができるかどうかわからない」と、後になって駄々をこねるのは目に見えている。喜んでいられるのも今のうちだけだ。
「歩。今の状況、わかってるの?」
「わかってるよ。北海道に引っ越すんでしょ?」
「そう。でも、今までとは違うの。ずっと住むことになるのよ」
少し投げやりに言って、残りのご飯を口一杯に頬張った。
北海道にある上士幌町に住んでいる父方の祖父母の家には、毎年のように遊びに行っていた。どこに何があって、どんな景色が広がっているのか。今もそこに住んでいるみたいに、手に取るようにわかる。
多少の心配はあっても、祖父母のいる町だし、初めての地ではないだけマシかもしれない。ただ、遊びに行くのと引っ越すのとでは訳が違う。一時を過ごすのではなく、おそらくは永住。はいそうですか、と、素直に受け入れられるものではない。
「……私、志望校も決めてたし、友達と一緒に行こうって約束もしてたのに」
「そのことは、悪いと思ってる。莉緒、ごめんな」
父は頭を深く下げた。その姿を見ていられなくて、私はぎゅっと目を瞑(つぶ)った。
言いたいことはたくさんあった――どうして決める前に相談してくれなかったのか。どうして今なのか。全てをぶつけてしまいたい衝動にかられても、それはほんの一瞬。
ここで私が騒いだところで、この事実が変わるわけでも、引っ越しが白紙に戻るわけでもない。子供みたいなわがままをぶつけられる歳でもないし、何より両親を困らせたくはなかった。結局、言葉として吐き出す前に感情が鎮まっていった。
「うん……わかった。高校は、向こうで受けられそうなところ探してみるね」
「莉緒、ありがとな」
「決まっちゃったことだもん、仕方ないよ。間に合わなくなる前に準備しないとね」
私は早々に食事を済ませて部屋に戻った。
それからしばらく、何も考える気にならなかった。椅子に座るわけでもなく、ただドアに寄りかかったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
「北海道、か……」
転校も引っ越しも、これが初めてではない。
父の仕事の都合もあって2、3年の間隔で各地を転々としていた。中でも、東京での生活は5年目。仮に転勤になったとしても、高校受験を控えた私を連れて行くわけがない。そう高を括(くく)っていただけに、意外とショックは大きかった。
仲良くなった友達と離れることも、住み慣れた町を出ることも、最初の頃は嫌だったけれど、数を重ねる内に、気づけば慣れていた。「また移動するのね」と、割り切れるくらいには心が動かなくなっていた。そんな私が、小さい頃に捨てたはずの想いを久々に味わって、戸惑っている。
仕方ない――そうは言ったものの、完全に割り切れたわけではなかった。それでも今は行動するしかない。渋々机に向い、力なく椅子に座った。
パソコンを起動し、立ち上がるのを待ちながら、傍に置いてあった携帯を手に取った。開いたのは電話帳。並んだ友人たちの名前をつらつらと眺め、その途中で目に留まった“瑠璃”の名前に胸が痛む。
同じ高校へ行こうと約束をしていたのに、北海道へ引っ越すことになったと言ったら、瑠璃はどう思うだろう。裏切り者だと思うだろうか。嫌われはしないだろうか。そんなことばかりが頭の中を巡っていた。
「……何て言ったらいいのか、思いつかないよ」
直接会って話す前に連絡しておこう。電話がいいだろうか、メールがいいだろうか。色々考えてはみたものの、上手く説明できるだけの言葉が見つからず、結局、電源を切った。
何を言われてもいい。瑠璃には、後で何度でも謝ろう。今は、目の前にある現実を受け入れて、行動することが最優先だった。
「高校探すって言っても……私、何も知らないんだよね」
知っていても、せいぜい観光地くらいだ。住むという目的で調べたことはないから、知っているようで何も知らないのが現状だった。
とりあえず、私が住むことになる【上士幌町】で検索をかけてみた。トップに表示されたのは、旅行者向けのサイトや町が運営しているホームページ。ナイタイ高原牧場をはじめ、アーチ橋ツアーの案内や写真が大きく掲載されている。
観光協会のサイトから、個人のブログで紹介された旅行の記事まで、様々な情報が溢(あふ)れるその中で“上士幌高校熱気球部 バルーン・フェスティバルで総合優勝”の文字が目に留まった。
夏と冬の年2回、上士幌町で開催される熱気球の大会のことだ。全国各地から集まる熱気球のチームを押し退けて、高校生のチームが優勝したという記事だった。
上士幌高校――キーボードに置かれていた指は、無意識のうちにその文字を打っていた。
「へぇ、熱気球部なんてあるんだ。高校にこの部活があるのって、北海道ではこの高校だけなんだね」
熱気球部……どんなことをする部活なんだろう。最初はほんの少しの興味だった。身近ではないものへの好奇心、ただそれだけだった。
熱気球なんて、ただ飛ばしているだけだと思っていたけれど、得点を競うための競技種目が幾つもあって、それには高い操縦テクニックが必要になるらしい。
上士幌高校熱気球部にはパイロットを目指す学生もいて、卒業生の中には在学中に取得した学生もいたみたいだ。その生徒に密着取材をしたドキュメンタリーが放送されていたり、地方局のテレビ番組が、何度か部活の取材にも来ているようだった。
「熱気球部かぁ……ちょっと面白そう。せっかく北海道に引っ越すんだから、他ではできないことしたいよね」
再び高校のホームページへ戻り、部活紹介のページに掲載された写真をクリックした。
夏の青空に飛び立つ熱気球を背景に、広大な緑の平原に笑顔で立つ部員たちの写真を目にした瞬間。私は瞬きをするのも忘れて、画面を見つめていた。神経や意識、思考や行動、あらゆるものがそこに吸い寄せられて、根こそぎ奪い去られたような、そんな感覚に近い。
「そっか、あの時の――」
どこまでも高い青空
遥か地上に見える町
頭上で響くバーナーの音
断片的な記憶が一瞬で脳裏を駆け抜けた。
小学校にあがる少し前、父と一緒に熱気球に搭乗したことがあった。怖かったのか、楽しかったのか。あの時に味わった感情が何だったのか、小さかった私にはわからなかった。でも、やっとわかった気がする。
圧倒されたんだ――あの音と、風と、景色に。
私は画面に手を伸ばし、表示された熱気球部の写真に指先で触れた。その時、ゴオォッと吹き上がるバーナーの音が、耳の奥で聞こえた気がした。
第2回
❉❉❉❉
その週の土曜日。時刻は午前5時40分。
何度目かわからない欠伸(あくび)をし、閉じそうになる目を何とか見開きながら、つま先に引っかけるように靴を履いた。
「お婆ちゃん、いってきます」
「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」
祖母に見送られながら、玄関のドアを勢いよく押し開けた矢先のこと。吹き込んできた冷たい風に驚いて体は反射的に強張り、すぐさま立ち止まった。
「えっ、うそ。雪!?」
目の前に広がったのは、真っ白に染まった景色。地面はもちろん、庭先に植えられた桜の木の枝や、父の車の上にも、数センチほどの雪が積もっていた。
状況が理解できず呆気に取られている間にも、冷たい空気がそろりと忍び込んできた。ドアノブを掴んでいる手を撫で、足元をサッと通り過ぎていく。目に見えるはずのない風の動きが、はっきりとわかるくらいだった。
「もう4月も半分過ぎたのに、雪だなんて」
信じられない。そう言いかけた言葉は、寒さからどこかへ行ってしまった。
「お婆ちゃん、雪だよ、雪っ」
「夜中に降っていたみたいだね。まぁ、こっちでは珍しくもないさ。去年なんて、5月の初めにも雪が降ったくらいだからね」
「さすが北海道。気候が全然違うんだね」
この町で桜が見られるのは、早くても5月半ば。春に降る雪は珍しくもないと、父から話だけは聞いていたけれど、実際にこの目で確かめるまでは信じていなかった。
「ほら、部活の時間はじまっちゃうよ」
立ち止まっている私の背を、祖母がトンと軽く叩いた。踏み潰していた靴をちゃんと履き直して、仕切り直し。
「それじゃ、いってきます」
「気をつけてね」
祖母に見送られ、私は家をあとにした。
その日の空気は張り詰めたような冷たさだった。湿り気が無く乾いていることもあって、肌を撫でるピリピリとした感覚は、痛いとすら思うほどだ。
早朝のせいか、道路を走る車は一台もない。聞こえるのは、遥か上空を旋回する鳶(とんび)の鳴き声と、微かに吹く風の音。そして私の足音。ただひたすらに、そこにある音を聞きながら、真っ直ぐ伸びた一本道を歩いて行く。
家から高校まで歩いて10分。寒さに手を擦り合せ、息を吐きかけながら、ようやく校門へと到着した。そこから上条先生と数人の学生が校舎前に集まっているのを見て、ハッとした。集合時間を間違えたのかもしれない。私は慌てて駆け出した。
「お、おはようございます。すみません、遅れました」
「おはよう、内野。大丈夫、少し早いくらいだ。他の部員がいつも早いんだよ」
「そ、そうなんですか? よかった……」
ホッと胸を撫で下ろしながら、おずおずと見回した。
隣にいたのは同じクラスの宮嶋春斗。ワカメみたいな天然パーマの髪を掻(か)きながら、タレ気味な目を細めて、ひかえめな欠伸(あくび)を一つ。目が合うなり小さく会釈された。
「皆そろったことだし、始めようか」
先生のかけ声に、他の部員たちが返事をし、各々が頷いた。
部員は6名。3年生の部員はゼロで、現在は2年生だけ。新入部員は私と宮嶋君の2名のみで、おまけに女子部員は私1人だけだった。
その場で簡単な自己紹介をしたけれど、眠気と寒さ、緊張のせいか先輩たちの名前が頭に入ってこない。ただ、部長が「笠原凌太さん」だということは憶えた。なにせ、部員の中でも頭一つ分背が高く、黒縁眼鏡に、きりりとした太くて短い眉毛。その風貌と存在感は、黒光りした毛にスラリとした細身のドーベルマンみたいだった。
「とりあえず、内野と宮嶋は見学。立ち上げとか準備の流れ、一通り見てもらおうかな。凌太、指示出して準備な」
「了解です」
挨拶を終え、さっそく活動開始。先輩たちの後を追ってグラウンドへ移動した。
野球グラウンド横の芝生に一台のワゴン車が停車している。笠原さんは真っ先に後部席のドアを開けると、乗り込む様子もなく、ドアの前で何やら作業をしている。その手には色鮮やかなグリーンの風船が握られていた。
「先生、飛ばします」
「んっ。いいぞ」
それを合図に、笠原さんは風船を離した。
空へ吸い寄せられるように、真っ直ぐに飛んでいく風船を、先輩たちはじっと見上げている。
「先生、あれは何をしているんですか?」
私は少し声を潜(ひそ)めて訊ねた。
「風の流れを見ているんだ。どの方角へ吹いているのか、どのくらいの強さなのか。風が強過ぎる時に熱気球は上げられないからな」
「今日は飛ばせそうなんですか?」
「そうだな。風が穏やかだから、比較的流されずに真っ直ぐ上がってる。問題ないよ」
先生はそう話しながら、笠原さんにOKサインを出した。
そこからの作業はあっという間だった。プロパンガスが詰まった4本のボンベをバスケットに積んで、バーナーを取りつけて、20メートル近くある球皮を広げていく。
一つひとつの作業を見ても、細かな決まりがあって工程も分かれている。どう見積もっても時間のかかる作業のはずなのに、そう感じさせないのは、先輩たちの手際の良さとチームワークといったところだろうか。
それらの作業が終わり、いよいよ球皮を膨らませていく。熱気球の飛行には欠かせない、あの風船の部分だ。
先輩が2人、球皮の開口部を持って広げている。そこへ、ガソリンエンジンで稼働するインフレーターという送風機が登場。ブロロロッと唸るようにエンジンがかかり、送り出された強烈な風が中へ一気に吹き込んだ。球皮は大きく波打ちながら、みるみる膨らんでいった。
「内野、宮嶋。入ってみるか?」
『へ?』
突然のことに、私と宮嶋君は気の抜けた返事をした。
「どこに、ですか?」
「球皮の中だよ。入ったこと、ないだろう?」
「いいんですか?」
「今日だけな」
私と宮嶋君は、確かめるように互いの顔を見交わす。先生に促されるまま、球皮の中へと足を踏み入れた。
「なんか、感動……」
宮嶋君はきょろきょろと中を見回しながら呟いた。私もこくりと大きく頷いた。
立ち上がる前の球皮内は、インフレーターから送り込まれた風が轟々(ごうごう)と音を立てて渦巻いている。その薄い半円状の布の内側からは、徐々に明るくなり始めた空の色と、球皮を彩る赤や黄色の模様が重なり合って、うっすらと透けて光っていた。
「この感じって、あれに似てる」
と、宮嶋君がまた呟いた。
「あれって?」
「ほら、お祭り会場とかに特設されてる、ドームタイプの巨大エア遊具」
おそらく、キャラクターのお腹の中に入ってぴょんぴょん飛び跳ねる、あの遊具のことだろうか。確かに、充満しているビニールっぽい匂いや、見上げた時の光景は少し似ている気がする。
「内野、宮嶋! そろそろバーナー使うから、戻ってこーい」
そこへ声が届いた。入口からこっちに向かって、先生が手招きをしている。
横倒しになったバスケットとバーナーの間に笠原さんが入って、何やら準備を始めているのが見えた。
私と宮嶋君はすぐに外へ出た。それを確認し、先生は笠原さんの隣に立った。
「バーナー、入ります!」
笠原さんが声を上げ、バーナーのレバーを引いた。その瞬間――空気をビリビリと震わせながら、澄んだ赤い炎が球皮内に向けて放たれた。
吐息も白くなる寒さだったのに、バーナーの熱は球皮内だけではなく、その周囲の空気まで一瞬で温ためてしまう。離れた場所に立っていた私のところにまで、その熱が伝わってくるほどだった。
温められた空気は球皮の中で膨張し、横たわっていた球皮がふわりと立ち上がっていく。その様子は深海を漂う巨大なクラゲみたいで、優雅なのに力強ささえ感じる。驚きや感動、色々な感情が混ざり合って、私は完全に圧倒されていた。
「宮嶋君、熱気球って、こんなに大きかった?」
「俺も久々に近くで見たけど、迫力あるね」
「うん……」
返事をした私の顔は、きっと間抜けな顔になっていたかもしれない。口をぽかんと開けて、目を丸く見開いていたのだから。
そうして準備が終わり、後は空に飛び立つのみ。浮力でバスケットが浮かび上がるのを先輩たちが押さえつけ、その隙に、笠原さんと先生が素早く乗り込んだ。
「あと1人、誰か乗ってくれ」
「先生、せっかくだから、2人のどちらかでいいんじゃないですか?」
笠原さんが私と宮嶋君を指差した。急に指名されたものだから、私たちは互いを探るように顔を見合わせた。もちろん、先に乗りたいというのが本音。
今日のフライトは、ロープで地上に繋(つな)がれた係留飛行ではなく、どこまでも高く飛んで行ける、熱気球本来の飛行が可能なフリーフライト。私にとっては初めての紐無し飛行だ。
「内野、乗ったら?」
「いや、宮嶋君も乗りたいでしょ?」
お互い、口では遠慮しながらも顔には“乗りたい”と書いてある。しばらく譲(ゆず)り合いが続いていたけれど、いつまで経っても決着がつきそうにない。仕方なく、私は握った拳を突き出した。
「ここはやっぱり、ジャンケンでしょ?」
「賛成」
突き合わせた拳を小さく振って、ジャンケン、ポン。宮嶋君はグー、私はパー。軍配は私に上がった。
第3回
バスケットの側面中央にある、小さな四角い窓のような部分に足をひっかけて、ヒョイッと跨(また)ぐ。飛び込むようにバスケットの中に入った。ガスボンベが四つ角に積め込まれていることもあって、見た目の大きさに反して中は意外と狭かった。
「よし、行くか。凌太、いつでもいいぞ」
「はい。それじゃ、行きますね」
先輩たちがバスケットから手を離し、笠原さんがバーナーのレバーを思いっきり引いた。吹き上がったバーナーの熱は、球皮いっぱいに蓄えられ、熱気球は空へと飛び立った。
ものの数秒で高度は上がり、地上にいる宮嶋君や先輩たちは、あっという間に小さくなって、すぐに見えなくなった。
観覧車や飛行機みたいに、壁に守られて内側から見る景色とは全く違う。風の流れや音、そこを駆け抜ける空気の匂い。何もかもが想像とは違っていた。
何より、一番の予想外は高さだった。一定の高さ以上は上昇できない係留飛行とは比べものにならない。あまりの高さに足が面白いくらいに笑って、力が抜けて、踏ん張っているのがやっとだった。
「内野、どうした。怖いか?」
バスケットの縁に額(ひたい)を付けて突っ伏す私に気づき、先生は少し驚いた様子で声をかけた。
「ちょ、ちょっとだけ」
「最初はそんなもんだよ。時間が経てば慣れるさ」
と、ケラケラ笑いながら私の肩を叩いた。
そんな私のことなどお構いなしに、先生と笠原さんは、風の向きや場所について話している。
大丈夫。もう少しで慣れるはずだから、大丈夫。
心の中で自らに言い聞かせ、長めの溜息(ためいき)をついた時だった。ふと、左頬が温かくなったことに気づいて顔を上げた。
下ばかり見ていた私の視線が、その時初めて、そこに広がる景色を捉える。恐怖心がどこかへ消えていくのを確かに感じた。
「きれい……」
白い残月が浮かぶ薄紫色(うすむらさきいろ)の空に、白銀の朝陽(あさひ)が広がっていく。
息をのむ――私は初めて、その感覚をはっきりと感じた。
地上へ降り注ぐ朝陽は、どこまでも続く真っ白な雪の大地と、ジオラマみたいに小さくなった私の町を照らしている。
今、私は空にいる。その感覚さえ麻痺(まひ)してしまうほど、そこは私の想像を遥かに超えた世界だった。
空を行く鳶(とび)や鷹(たか)は、こんなにも高い世界から地上を見下ろしていたのか。そう思うと瞬(まばた)きさえも惜しくなる。それほどに、目の前に広がる景色は幻想的だった。
言葉も、吐息も、瞬きさえも。全ての感情を掻(か)っ攫(さら)っていく。
もっと言葉があるはずなのに。伝えたいことはたくさんあったはずなのに。この景色を見たとたんに、私の中の言葉はどこかへいってしまった。
それに――何もかもが、どうでもよくなった。ずっと悩んでいたことが、途轍(とてつ)もなくちっぽけなことに思えた。どうして悩んでいたのか、その理由すらわからなくなるくらい。目の前に広がる景色が、全てを吹き飛ばしてしまった。
「先生、すごいですね! すごい……」
「内野、さっきからそればかりだな」
先生がおかしそうに笑った。それでも私は、バスケットに掴(つか)まりながら、身を乗り出すように景色を眺めた。さっきまでの恐怖心はどこへ行ってしまったのか、自分でも不思議なくらいだった。
「だって、すごいじゃないですか」
「うん、確かにな」
先生はその景色を見慣れているからなのか、少し素っ気ない返事をして、地上から追走している部員たちとレシーバーでやり取りをしている。
一人で喜んでいるのが馬鹿みたいで、私は少しいじけながら、昇り始めた太陽に視線を向け、その眩(まぶ)しさに目を細めた。
「よし、そろそろ下りるか。凌太、頼む」
今日のフライトを担当している2年の笠原さんに、先生が指示を出した。
「了解です。ポイント、どこにします?」
「練習も兼ねて、自分で考えな」
「えぇ……」
あからさまに自信がなさそうな返事をして、笠原さんは小さく溜息をついた。文句を言いつつも、それでも笠原さんは淡々と作業を続ける。
「先生、その先の畑、試してみてもいいですか?」
「この真下じゃなくて?」
「ここは電線が多いので、引っかかったら嫌なんで」
「わかった、やってみな。凌太、この辺で高度落としておけよ」
「はい」
笠原さんはバーナーフレームの傍にだらりと下がっていた紐を力一杯引いた。とたんに熱気球が降下。滑るように地上へ近づいていく。一体、今のはなんだったのか。私は球皮を見上げた。
「先生、今のは?」
「球皮内の熱を外に逃がして、高度を調節したんだ。球皮の天辺にリップラインっていう、排気するパラシュートがある。さっきの紐を引くと、排気できるようになっているんだ」
「先生、そろそろ着地させます」
淡々とした笠原さんの声が会話に割り込む。
球皮の内部を見上げている間に、熱気球は地面目前まで迫っていた。
「内野、少し揺れるから気をつけろよ。凌太、慎重にな」
「了解です」
地面まで、あと数メートル。
真っ白な雪が積もる広大な畑に、熱気球のシルエットがくっきりと映る。
笠原さんはバスケットから身を乗り出し、短く、数回バーナーのレバーを引いた。降下していた熱気球はふわりと一旦上昇。数十センチの空中を滑るように飛んで、トンッと、軽く触れるように地上に着地した。
間もなくして、部のワゴン車で追走していた副顧問の先生と先輩たちもその場に到着。畑に着陸した熱気球のもとへ駆け寄ってくる。
「先生、どうでした?」
「んー、上出来。今までで一番良かったかもしれないな」
探るように訊(たず)ねる笠原さんに、先生はニッと笑ってそう答えた。その時の、照れくさそうな笠原さんの笑顔が、私の中の“何か”を確実に動かした。それが感情なのか、感覚なのか、今はわからない。
風の流れを読んで目的の場所へと向かう――それは、どんな気分なんだろう。そんな強烈な想いが、背筋を駆け上がっていったのは確かだった。
❉❉❉❉
「先生。パイロットの資格は、どうすれば取れるんですか?」
その日の部活終わり。
先輩たちが校舎裏にある倉庫へ、バスケットやインフレ―ターを片付けに向った隙(すき)を見て訊ねた。
「色々やることはあるけど、最終的には筆記試験と実技試験を受けることになる。免許、取りたいのか?」
ワゴン車に積まれたガスボンベを降ろしながら、先生は聞き返した。私はそれを受け取りながら、真っ直ぐに先生を見て頷(うなず)いた。
「私、半年前まで東京に住んでいたんです。お父さんの仕事の都合で引っ越すことになって、どの高校を受験しようかって探していた時に、たまたま上高(かみこう)のホームページを見つけて、この部のことを知って。それで、ここを受験しようって決めたんです」
話しながらガスボンベを持ち上げると、すぐさま先生が底の方を持って支えてくれる。2人がかりで抱え、そのまま倉庫へと向かった。
「パイロット免許取るために、ここを受験したのか?」
「いえ、その時はまだ――」
倉庫入口に差し掛かったところで、片付けを終えて出てきた先輩たちとすれ違った。何となく、この話を聞かれるのが嫌で、とっさに口を閉ざした。
足音と気配が遠ざかるのを横目で確認しながら、倉庫の奥へと進んだ。窓がないせいか中は暗く、外以上に冷えていた。
「最初は部活に興味があっただけだったんです。熱気球部ってどんなことをするんだろうって――でも今日、乗せてもらって変わりました」
バスケットの傍にガスボンベをおろし、ふと顔を上げれば、周囲に置かれたバーナーフレームやインフレ―ターが自然と視界に映る。
頭の中で何度も再生されるのは、バーナーの音と、笠原さんが熱気球を操縦する姿。
レバーを引くのも、風を読む感覚も、頭上で広がる熱も。その全てを、自らの身を持って体感したい。自分のものにしてみたい。その想いは、空で景色を見た時よりも強くなっている気がした。
「私も、操縦できるようになりたいです」
そう言った私に、先生は腕を組み、小さく息を吐く。地面に向けていた視線が不意に私を捉え、真っ直ぐに見据(みす)えられて思わず身構えた。
「パイロットの試験は、受けたいからといって誰でも受けられるものじゃない。まずは【Pu/t】になることが必要なんだ」
「ピ、ピーユーティー、ですか?」
「スチューデントパイロットといって、簡単に言うとパイロットを目指す人たちのことだ。まずは気球連盟の会員になって【Pu/t】として登録していることが第一条件だ。その【Pu/t】に相応(ふさわ)しいかどうかは、これから内野を見ていくことになる」
不意に、先生の視線が逸(そ)れた。その先には、入口付近に停めたワゴン車の傍で、部員たちと楽しそうに話している笠原さんの姿があった。
「笠原も、内野と同じようにパイロットの資格取得を目指している。入部から1年間、笠原がパイロットに向いているかどうか。部活でのことはもちろん、色んな姿を見て判断してきた」
「それで、笠原さんは?」
「今年の春から【Pu/t】として、本格的にトレーニングに入っているよ」
つまり、先生に“相応しい”と認められることが第一関門。その期間は1年。その間に、私の行動全てが審査されるこということだ。
「もしその1年の間に、パイロットには向いていないと判断されたら……?」
「残念だけど、【Pu/t】として登録させるのは難しいかな」
突きつけられた現実に、私は力なく息を吐くしかなかった。
パイロット免許に限らず、専門の資格を取るということは簡単な道のりではない。生半可な気持ちでは駄目。わかっていたつもりでも、改めて、言葉として受け取って実感した。
「楽しいことばかりじゃないし、むしろ大変なことの方が多い。それでもやってみるか?」
「……はい。よろしくお願いします!」
「そうか、わかった。これから一年間、頑張っていこうな」
肩を叩き、先生は倉庫から出て行く。私は振り向くこともできず、遠ざかっていく足音に耳を傾けることしかできない。心なしか、握り締めた手が震えていた。
第4回
❉❉❉❉ Ⅱ ❉❉❉❉
「今日は内野と宮嶋を中心に準備を進めてくれ」
雲一つない晴天の下。憎らしいほどに、先生はニヤリと不敵に笑った。
私は風船を手にしたまま、宮嶋君はワゴン車のドアに手をかけたまま、先生の一言に固まっていた。どちらからともなく顔を見合わせ、私は苦笑いを返した。
「私たちですか?」
「そう。時間なくなるからな。さっさと始めるぞ~」
ぐずぐずするなと言わんばかりに、パンパンパンッと、手を打ち合わせた。まるで、餌の時間だと手を叩いて呼び寄せられた子犬の気分だ。
入部から2ヶ月――準備から立ち上げまでの流れは、一通り理解しているつもり。ただ、今までは部長である笠原さんが中心になって進めていたし、私や宮嶋君はその指示のもと動いてきた。まさか、その指示役が回ってくるとは思いもしなかった。
どうすべきか、助けを求めて笠原さんに目をやった。どうしましょうと目で訴えかける私を、笠原さんは一度だけじっと見つめて「頑張れよ」と言いたげな作り笑い。さらりと視線を逸(そ)らされてしまった。
「ど、どうする?」
「どうするって、いつも通りでしょ?」
戸惑(とまど)う私を余所に、宮嶋君はあっけらかんとしていた。
私が抱えていた風船を取り上げて「飛ばしま~す」なんて、呑気(のんき)な調子で飛ばす。この状況を楽しんでいるような様子を前に、余裕のない自分が情けなく思えてしまった。
「んー、今日も真っ直ぐでいい感じだね。よし、さっさと始めるよ」
「う、うんっ」
宮嶋君に急かされて準備開始。運び出されたバスケットに入ったのは私だった。いつも笠原さんが立っているその場所に、今は私が立っている。たったそれだけのことなのに、言いようのない緊張が襲ってくる。
その時、ゴンッと音を立ててバスケットが揺れた。驚いて顔を上げると、笠原さんがバスケットの縁(ふち)にガスボンベを乗せていた。
「内野、手止まってる」
「す、すみません」
受け取ったガスボンベ4本を、バスケットの隅に専用のベルトで固定。隙間(すきま)なくぴったりと、動かないように固定しなければならない。
筋力がないことは何の自慢にもならないけれど、私にとってはこの作業がもっとも苦労する。引きちぎる勢いで引っ張っても、私の力ではどうにも手間取ってしまう。それぞれを固定し終わる頃には、その日の握力を使い果たしたくらいに、指先に力が入らない。むしろ笑っていた。
「内野、なに休んでんの」
「うわっ、あ、はい!」
息つく間もなく、先輩たちはバーナーフレームを運んでくる。受け取って、設置して、繋(つな)いで。気づけば、指示を出すどころか作業に追われている有様。
その最中、ふと視線を感じた。いつも一緒に準備をしている先生が、少し離れた場所からこちらの様子を眺めていた。
―― これから内野を見て判断することになる
先生が言っていたあの言葉は、すでに始まっている。私と宮嶋君が中心となるよう指示を出したのも、全ては【Pu/t】として相応(ふさわ)しいかどうかを判断するため。
ビリリッと、痺(しび)れるような緊張感が爪先から脳天へと駆け抜ける。忙(せわ)しなく鳴いている蝉の声がやけに大きく聞こえ、不安を煽(あお)っていった。
「内野、次の指示」
呆然としていた私に、笠原さんが小声で言った。そんな言葉でさえ、心臓に突き刺さるような痛みを覚えた。
「――えっ、はい! えっと、次は球皮を」
「違う」
バスケットから出ようと足をかけたところで、笠原さんに止められた。
無言のまま、頭上のバーナーを指差されたけれど、それが何を意味するのかわからない。ぼんやりと見つめるだけ。わかっているはずなのに、何も出て来ない。完全に頭が真っ白になった。
「……」
「バーナーの点検」
「っ! そ、そうでした!」
言葉に突き動かされるまま、私はレバーを引いた。
突然の轟音(ごうおん)に、宮嶋君や先輩たちは驚いて振り返る。それ以上に驚いたのは私の方。慌てて手を離した反動でバランスを崩し、転びそうになりながらバスケットにしがみついた。
「こ、声かけてから、でしたよね……」
誰もが作業の手を止め、数秒の沈黙が流れた。これほど気まずい空気を味わったのは初めてだった。
それからの時間は最悪そのもの。中心になって準備するどころか、気がつけば笠原さんと宮嶋君の指示に従いながら作業を終えていた。
この2ヶ月、私は何をしてきたのだろう。その言葉が脳裏に焼きついて離れなかった。
❉❉❉❉
その日のお昼休み――
「莉緒(りお)、具合でも悪いの?」
かけられたその声で、私は我に返った。向いに座っている真菜(まな)と千鶴(ちづる)が、心配そうに顔を覗(のぞ)き込んでいた。
「う、ううん、大丈夫だよ」
「でも、さっきからぼーっとしてるよ?」
「何かあった?」
何も。そう言かけて、出たのは溜息(ためいき)。とたんに、今朝の部活での失敗が蘇(よみがえ)って、表情は苦々しく歪(ゆが)んでいった。
手元には今日の給食が置かれている。メニューはビーフシチューと、30センチはあろうかという長い揚げパン、ツナサラダ、デザートにはミルクプリン。淡いグリーンのトレイに並んだその料理を前にしても、私の食欲はいっこうに湧(わ)いてこない。
シチューの器に沈んだスプーンは、ただただそれをかき混ぜるだけ。ほんのり温かかった揚げパンも、すっかり冷めて固くなり始めていた。
「実はね……今日、部活で色々失敗しちゃって」
「それで元気なかったの?」
真菜の問いに頷きつつ、ようやくシチューを一口。もう少し温かくて、私に食欲があれば、もっと美味しく感じられたかもしれない。
再びスプーンを置いて、器の中でくるくるとかき混ぜる。千鶴は笑い飛ばしながら、私の肩を叩いた。
「失敗くらい誰でもあるって。気にした方が負けだよ? もっと楽に考えなよ」
「うん、それはわかってるんだけど……」
はっきりしない私に、千鶴は「仕方ないなぁ」と、自分のミルクプリンをくれた。「甘いもの食べると幸せな気分になるよ~」って。そういう千鶴の明るさに、少し気持ちが楽になった。
「それで? 部活でどんな失敗したの?」
「……色々」
「色々? ほら、話した方が楽になるんだから」
何でも聞くよと、千鶴は前のめりになる。
あれも、これも。今日の失敗の全てを口にしたら、それこそ立ち直れなくなりそうだった。ひょっとしたら泣いてしまうかもしれない。それだけは避けるため、言葉を濁(にご)すことにした。
「本当はね、もっとちゃんとできることがあると思ってたの。でも、想像以上に何も身についてなかったんだって、思い知らされた気がして……」
「莉緒。そこまで部活に入れ込む必要ないんじゃない?」
真菜はさらりと、少し冷たいとさえ思うくらいに、淡々とした口調で言い放った。
「3ヶ月は辞められない決まりだから、今すぐは無理だと思うけど。期間が過ぎたら、とりあえず帰宅部に戻ったらどう?」
「帰宅部、ねぇ……」
「辛いだけの部活なんて、他に影響するから辞めた方がいいと思うわ」
現実主義な真菜らしい考えだった。
入学してまだ数ヶ月だというのに、真菜はすでに卒業後の進路も見据(みす)えている。幼稚園教諭の資格を取りたいからと、必要な習い事をたくさんしているらしい。
部活に打ち込んでいる暇がないという理由で、選んだ部活は廃部寸前の写真部。もちろん興味があったわけでも、写真が好きだったわけでもない。部員が少なく、活動自体もほぼ無いに等しいことから、3ヶ月後には辞めやすいだろうという計画的なものだった。
「千鶴も、辞めた方がいいと思う?」
「まぁね。私、そういう面倒なこと苦手だから。もし辞めるなら、家庭部おいでよ。毎週、色んなお菓子作れるから楽しいよ」
と、千鶴は今日の部活で作ることになっている、ベイクド・チーズケーキの本を見せてくれた。こんがり焼き色のついたチーズの生地(きじ)が、なんとも美味しそう。
「先輩たちは優しいし、お菓子作りは楽しいし。莉緒、家庭部おいでよ」
「せっかくだけど……熱気球部活を辞めるつもりはないんだよね」
「熱気球に思い入れでもあるの?」
「えっと、うん……まぁ。ちょっとね」
「わかった! 好きな人がいるから辞められないんでしょ!」
千鶴は私の顔を指差してニヤリとし、真菜は「そういうことね」と、納得したように何度も頷いた。
「ち、違うよっ! いない、いない」
「否定するところが逆に怪しい。誰よ?」
「部員って、誰がいたっけ?」
真菜は揚げパンを小さく千切り、頬張りながら首を傾(かし)げた。
「私と宮嶋君以外は、2年生の先輩しかいないよ」
「宮嶋? それって、宮嶋春斗(はると)のこと?」
その名前を聞いた千鶴は、教室内をゆっくりと見渡した。窓際の最後尾の席で、友人たちと騒いでいる宮嶋君を見つけるなり、何度も首を横に振った。
「あぁ、あいつはないわ。男として意識できない」
「今は男子といることが多くなったけど、中学までは女子とばかり行動してたから、なおさらだよね」
「そうなの?」
2人は『うん』と、声を揃(そろ)えた。
「私も真菜も、宮嶋とは幼稚園から一緒なの。その頃からなんだけど、女子の中にいる方が違和感なかったんだよね」
「むしろ、男子といる方が不思議なくらいだったよね。だから、私たちも半分“同性”だと思って接していたくらいだし」
「まさか莉緒、宮嶋のこと?」
信じられないと言った顔で、千鶴が私を見る。変に誤解されると、宮嶋君にも迷惑がかかりそう。ここはお互いのためと思って、きっぱり否定した。
「違うから! とにかく、部活のことはね……一度始めると、最後までやらないと気が済まないっていうか。簡単に諦(あきら)められない性格だったりするわけよ。だから、ね」
それ以上は何も言えなかった。
パイロットの資格を取りたいだとか、子供の頃に搭乗した時の感動、その想いを話したら2人はどんな顔をするだろう。たかが部活に、何をそんなに熱くなることがあるのかと、呆(あき)れるだろうか。
部活で何もできなかった情けなさに加えて、自分が何をしたいのか、何に夢中になって目標としているのか。胸を張って堂々と言えないことが情けない。
自分が信じているもの
追いかけているもの
それを口にするのが怖いのは、自分に自信がないから。相手にどう思われるのか気にしているから躊躇(ためら)うんだ。恥ずかしいと思われることなんて、何もしていないのに――
「色々と、難しいよね……」
もどかしさを味わいながら、再び溜息がもれる。シチューに沈んだスプーンは、相変わらずかき混ぜるだけだった。
第5回
❉❉❉❉
『すげぇー!』
傍で見学していた小学校三年生の男の子たちが、バーナーの点検作業中に吹き上がる炎を見上げて声を揃(そろ)えた。
ある夏休みの日曜日。熱気球の面白さを知ってもらうことを目的に、熱気球部は係留飛行の搭乗体験のボランティアに来ていた。
場所は小学校のグラウンド。風はとても穏やか、空は澄んだ青。それをいっそう惹(ひ)き立てるのは蝉たちの大合唱。
天気良好、夏真っ盛りのBGMをバックに、空からの景色も抜群。まさに飛行日和だ。ただ問題は――
「ねぇ、お兄ちゃん。これ何?」
「えっと……インフレーターだよ」
訊ねられた笠原さんは困った様子で、少し突慳貪(つっけんどん)に返していた。
もともと口下手というか、あまり多くを語るタイプではないだけに、反応が少々薄い。子供たちもどこか不満気。せめて笑顔が完璧なら乗り切れたかもしれない。無理して笑っているせいか、表情が完全に引きつっていた。遠くから見ていた私がハラハラしてしまった。
子供たちと一緒に立ち上げの作業をするのが恒例なのだけれど、笠原さんをはじめ、部員のほとんどが子供たちにどう接していいのかわかっていない。
何でも涼しい顔でこなし、弱点がなさそうな笠原さんが、あたふたしている姿を見たのは初めて。ある意味、新鮮だった。
さすがに上条先生は「先生」が本職だけあって対応に慣れている。単なる高校生でしかない私たちには、無邪気(むじゃき)な子供たち全員を大人しくさせるのは至難の業。
「内野! 球皮広げる作業、頼む!」
子供たちに熱気球の説明をしていた上条先生が、こちらに手を振った。まさかの指名に、心なしか緊張してしまった。先輩たちほどではないけれど、私も子供たちとどう接していいのか掴(つか)めず、手探り状態だった。
それから間もなく。先生が子供たちに何か言ったらしく、20人近くの子供たちがわーっと、私のもとへ駆けてきた。逃げる間もなく取り囲まれて、期待の眼差しが一斉に集められた。
「よ、よし! これから球皮を広げるよ。皆、手伝ってくれる?」
「きゅうひ? お姉ちゃん、なにそれ?」
坊主頭の男の子が、楽しそうにクケケッと笑って訊ねる。
「風船みたいに、大きく膨(ふく)らんでいる部分のことだよ。これを広げないと、いつまで経っても熱気球は飛ばせないからね。急いで広げちゃうよ」
「内野、俺も手伝うね」
「うん、ありがとう」
加勢に来た宮嶋君と2人で、ワゴン車から球皮袋を降ろす。
転がり落ちるように出てきた大きな球皮袋に、子供たちは「おまんじゅうだ!」とか「団子だ!」と大はしゃぎ。
袋から球皮をグラウンドに引きずり出し、広げるところまでが子供たちとの共同作業作。あとはいつもの通り。
子供たちの安全面を考慮して、今回の操縦は上条先生。笠原さんはその補佐。数名ずつ、子供たちを順番に乗せている間、私と宮嶋君は待っている子供たちの遊び相手。
戦隊ごっこに、鬼ごっこ。大抵、私と宮嶋君は悪の手先か鬼の役だった。そうして時間はあっという間に過ぎ、全ての子供たちが乗り終えた頃には、午前11時を過ぎていた。
「はぁ……疲れた」
深めの溜息をつきながら、グラウンドの隅に設置されたブランコに腰かけた。ギィッと錆びついた音を響かせて、鎖がジャララと揺れる。
熱気球の片付けも終わり、今は小休憩。あと30分もすれば昼食の準備が始まる。先生の話によれば、今日は子供たちと一緒に屋外焼き肉だそうだ。宮嶋君曰(いわ)く、夏の屋外焼き肉は定番らしい。
「この真夏日に、外で焼き肉ねぇ……」
鎖に寄りかかりながら、ぼんやりと空を見上げた。
大きな柏の木に囲まれたこの場所は、陽射しが程よく遮られ、心なしか風がひんやりと冷えている。一歩でもここから出れば、真夏の陽射しが容赦(ようしゃ)なく降り注ぐ。
まだ午前中だというのに、すでに気温は30度近く。今年の最高気温を上回ると、天気予報でも言っていたから、もう少し暑くなるかもしれない。
焼き肉を目の前にして、ちゃんと食欲が湧くだろうか。心配を余所に、先輩たちは子供たちと一緒に鬼ごっこをしていた。
グラウンドに響く無邪気(むじゃき)な声を聞きながら、そっと目を閉じた。疲れているのか、そのまま眠ってしまいそうになる。うるさいと思っていた蝉の声も、心地よいとさえ思えた。
「内野、いたいた!」
その声に、意識が引き戻された。
目を開けると、そこには宮嶋君が立っていた。きょとんとする私に、ニッと笑いかけて両手を突き出した。手にはアイスの袋が握られていた。
「先生からの差入れだって。苺とオレンジ、どっちがいい?」
「あ、ありがとう。選んでいいの?」
「いいよ」
「じゃあ、苺味」
受け取った矢先、宮嶋君は隣のブランコに座った。渡し終えたらいなくなると思っていたのに。まさか一緒に食べるつもりなのだろうか。
そっと、横目で様子を窺(うかが)った。やはりここで食べるらしく、宮嶋君はさっそく封を開け始める。「いただきます」なんて律儀に手を合わせて、早々に一口目を口にした。私も急かされるように袋を開けた。
「んー、美味い。内野の苺味、どう?」
「うん、美味しいよ。苺味って、ハズレないよね。宮嶋君のオレンジは?」
「美味い。日本のミカンじゃなくて、外国のオレンジって感じで」
「何それ」
思わず、フッと吹き出してしまった。
「味とか種類? ハッサクとかミカンっていうより、マンダリンオレンジかな」
「マーマレードに使うような?」
「そう、そんな感じ」
部活に入ってから数ヶ月。部活以外のことで、宮嶋君とまともに会話をしたのはこれが初めてだった。同じクラスではあるけれど席は離れているし、部活のこと以外の会話をするほど親しい仲でもなかったから。
この感覚は、何なんだろう。まるでずっと前から知り合いだったみたいに、違和感もなく自然と話せている。
以前から、宮嶋君は不思議な空気を持っている気がしていたけれど、それは間違いではなかった。気まずさも居心地の悪さも、そこにはなかった。
会話が途切れ、食べることに没頭していた時だった。シャリシャリとアイスを噛(か)み砕く音と、蝉の声に混じって、誰かが呼んでいる声が微かに聞こえた。