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2016/12/31

第11回

| by kida

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 その日のバーナーの音は、いつになく喧(やかま)しく聞こえた。

焼き鳥やフランクフルトの焼ける匂いと、小さな子供たちがはしゃぐ声、輪唱のように鳴り響く無数のバーナーの音が、風に乗ってどこからともなく流れてくる。漂うお祭りムードにはしゃぐ部員たちの中で、ただ一人、私だけが苦々しい顔をしていた。

「ちょっと緊張してきた……」

「本当、内野って上がり症だよね」

 インフレーターに寄りかかって項垂(うなだ)れる私を見て、宮嶋君は他人事のように笑った。

 ここは高校のグラウンドでもなければ、どこかのジャガイモ畑でもない。上士幌町で毎年開催されている熱気球の大会【バルーン・フェスティバル】の会場に来ていた。もちろん、遊びに来たわけではない。今日、ここで行われる大会に参加するためだった。

「俺も内野も、今回は搭乗するわけじゃないんだからさ。緊張するのは笠原さんの役目だと思うけど?」

「それは、そうなんだけど。今日は部活とはわけが違うでしょ? 大会だし、競技なんだもん。余計なことして足引っ張ったらどうしようとか、考えちゃって……」

「そう思うからミスするんだよ?」

「わかってます」

 投げやりに返して、私はインフレーターを起動させた。ブロロロッとエンジンがかかって、プロペラがゆっくりと加速していく。球皮の開口部に風が流れるよう向きを調節している間、あちこちで立ち上げの準備をしている参加チームの熱気球が目に留まった。

色はもちろん形状も様々で、変わったものだと、シャンパンのボトルに目と口、手足が生えたキャラクターものまである。

全国各地から集まったその熱気球を操縦するのは、貫録のある年配のパイロットから大学生パイロットのお兄さんたち。その中でも、高校生の参加は上士幌高校だけだった。

不利に思えるこの状況でも、数年前には上士幌高校熱気球部が優勝しているのだから、今年だって可能性は十分にある。その瞬間に立ち会うことができるとしたら、やはり地上ではなく空がいい。

「やっぱり、搭乗したかったなぁ」

 インフレーターの後ろで呟いたその言葉は、激しく回転するその渦に呑まれ、少しひび割れた音になって跳ね返ってくる。

きっと誰にも聞こえていないだろうと思っていたのに、傍にいた宮嶋君には聞こえていたらしい。「俺も搭乗したかったよ」と、さり気なく呟いていた。

「宮嶋君も?」

「うん、まぁね」

「そうだよね。パイロット目指している身としては、ちょっと複雑な想いもあるよね」

 うんうんと、宮嶋君は何度も首を縦に振った。

 今日の大会にはチームとして参加しているものの、熱気球に搭乗するのは、パイロット免許を持つ上条先生と部長の笠原さん。残りの部員たちは飛び立った熱気球を追走して、地上から状況を伝えるのが役目。当然の配役ではあるけれど、せめて笠原さんの補佐として同乗したかった。

「部活とは状況が違うし、度胸もつくと思うんだよね」

「こういう雰囲気に慣れておいて損はないよね」

「だから、地上からっていうのがね……」

「そうは言っても、下からの指示も大切なんだからな」

 何の前触れもなく、会話に声が割り込んだ。

驚いて振り返ったとたん、そこに立っていた笠原さんにレシーバーを突きつけられた。条件反射で受け取ると、なぜか不敵な笑顔を返された。

「受け取ったな?」

「えっ。受け取りましたけど……」

「よし。連絡役は内野に決まり」

「えっ!?

 押しつけられたレシーバーが鉛みたいに重く感じて、受け取った傍から宮嶋君に放り投げた。当然、宮嶋君がそれを素直に受け取ってくれるわけがない。意地悪そうなニヤケ顔で、逃げるなと言わんばかりに私につき返した。

「笠原さん、私、無理ですっ。ここにいるだけで緊張してるのに。間違ったこと言っちゃったら、もう泣きます」

「これも経験。内野、よろしくな」

 呆然とする私の肩を叩いて、笠原さんはさっさとバスケットに乗り込んでしまった。

 風を読んで操縦する笠原さんのプレッシャーに比べたら、地上での状況を伝える役目のほうがマシ。これといって特別なことはない。今まで部活でやってきたことをやればいい。わかっていても、一度膨らんだ緊張はなかなか萎んではくれない。

波を打って、左右にゆらゆらと揺れながら球皮が膨らむにつれて、私の緊張も少しずつ膨らんでいく。

 準備は着々と進み、他のチームは一足先に飛び立っていった。風の流れ、先に飛んで行った熱気球の動きを見ながら、上条先生と笠原さんは飛び立つタイミングを見計らっていた。

「先生、そろそろ行きましょうか」

「そうだな。ターゲットはどこにする?」

「この流れだと【A】がいいと思います」

「了解。いい風のながれが掴(つか)めるように、皆もサポート頼んだぞ」

 いよいよ競技が始まった。

先生と笠原さんを乗せた熱気球は、フワリと、滑るように空へと飛び立った。上昇するその様子を見送り、すぐさまワゴン車に乗り込んで後を追った。

 レシーバーを託された私は、状況を見やすい助手席に座った。真後ろに乗った宮嶋君が、運転席と助手席の間から身を乗り出した。

「内野、ターゲットの【A】ってどこだっけ?」

「高校のグラウンドだよ。ここからだと、南の方角になるね」

 ポケットに折り畳んで入れていた地図を取り出し、宮嶋君に見えるよう広げた。

 大会と名がつくのだから、飛ばすだけで終わりではない。それぞれのチームが得点を競い、勝敗を決める競技。

 競技の種類はいくつかあって、離陸ポイントやターゲットの設定方法などで異なる。その中でも、今年の競技は【パイロットデグレアドゴール】。競技委員会が町の中に複数のターゲットを設置して、競技者はその中の一つ選んで飛んでいく。

 ターゲットには目印となる【×】印があり、競技者はマーカーと呼ばれる砂袋をその印に向かって投下する。より中心に近い場所へ投下することができたチームが優勝となる。

 操縦テクニックはもちろん、冷静に状況を判断できる力も必要不可欠。あとはターゲットへ向かう風を、上手く見つけられるかどうかにかかっていた。

「他のチーム、けっこう流されてるね」

 助手席のサイドミラーに、宮嶋君が窓の外を見上げている姿が映っている。私は窓を開け、同じように空を見上げた。

部の熱気球よりも一足先に飛び立った他のチームは、各ターゲットとは大きく離れた方角へと流されていた。高校へ向かう途中も、定めたルートから外れてしまい、戻る風を見つけることができず、断念して着陸している熱気球をいくつか見かけた。

 風の流れは高さによって異なる。飛び立った直後は東へ向かって流れていても、その数メートル上空には逆方向へ流れる風の層がある。目に見えない風の流れを上手く見つけることが、この競技の勝敗を分けることになる。

「うちの部の気球は?」

「今のところは順調みたいだね」

 ターゲット【A】が設置された上士幌高校のグラウンドへ到着した私たちは、こちらに向かっている部の熱気球を不安な想いで見つめた。

「笠原さん、状況はどうですか?」

 ほんの少し震える手でスイッチを押し、レシーバーに向かって声をかけた。数秒ほど遅れてザザッと雑音が混じり、ゴォッとバーナーの音が聞こえた。

『今のところは、真っ直ぐポイントに向かってる』

「了解です」

『このまま進めそうだから、とりあえず状況見るよ』

 交わしたのは、たったそれだけ。すぐに通信が切れ、私と宮嶋君は空を見上げた。

現在、ターゲットまで一直線の位置にいる。このまま風の流れが変わらなければ、確実に高得点を狙えるはず。今できることは、風の流れが予期せぬ方向へ吹かないことを祈るだけだった。

 それから15分ほど経った頃だった。

ゆっくりと漂うように進んでいた部の熱気球は、マーカーを投下するため高度を下げ始めた。慎重に、確実に。逸(はや)る思いを押えつつ、見守っていた矢先のことだった。

順調に真っ直ぐ向かってきていた熱気球が、高度を下げたとたんに東の方角へ流され、ターゲットから大きく逸れていく。

「内野、なんかマズイよね?」

 宮嶋君の声は、心なしか焦っていた。

このまま進んでしまえば、戻れなくなる――私はすぐに通信を繋(つな)いだ。

「笠原さん、流されてませんか?」

『――今、高度上げた。このすぐ下を流れている風が違うから、ポイントに近づくのが難しいかもしれない。ちょっと別の風、探すよ』

 ジジッと音が響いて、笠原さんは通信を切った。それから間もなく、部の熱気球は再び上昇していく。私は地図を広げ、そこに熱気球の現在地と風向きを書き込んだ。

「宮嶋君。今、うちの気球はこの辺りかな?」

「多分ね」

「今の高度はターゲットに向かっている風が流れているけど、その下の風は東に向かって流れてるよね」

「西に流れる風があればね。一度その風に乗って、一気に高度下げて東の風に乗ることができれば、ターゲットに戻れるかもしれないのに。まぁ、そんな都合のいい風なんてないと思うけどね」

 風の流れを見るために風船を飛ばしたとしても、見える距離には限界がある。こういう時、風の流れが目に見えればどんなに便利だろうか。あり得ないことだとわかっていても、思わずにはいられなかった。

「笠原さん、上手く見つけてくれればいいけどね」

「でも、早く風見つけないと、ターゲットを通り過ぎて――」

 地図に向けていた視線を空へ上げた時だった。

部の熱気球の遥か上空に、一機の熱気球が飛んでいるのが見えた。それがゆっくりと、部の熱気球とは真逆の方角に流れているように見えた。

「ねぇ、宮嶋君。あの熱気球、西に流れてない?」

「どれ?」

「あれ。うちの部の熱気球より、上にある銀色の球皮の」

「……あっ、本当だ!」

 早く伝えなければ――その想いが先走って、焦りからレシーバーのスイッチが上手く押せない。手から落としそうになりながら通信を繋(つな)いだ。

「笠原さん! 上にある銀色の球皮の熱気球、見えますか?」

『上?』

 一言だけ返して、しばらく沈黙が流れた。おそらく、地上から見えているその熱気球の姿を探しているのだろう。その沈黙がやけに長く感じた。

「笠原さん、どうですか?」

『ごめん。ここからは見えない』

「その熱気球、西の方に流れているんです。一度その風に乗ってから、ターゲットに戻ってくることって、できそうですか?」

『――わかった。ちょっと試してみる』

 通信が切れる瞬間、レシーバーの向こうでバーナーの音が聞こえた。

それから間もなく、部の熱気球はさらに上昇。その狙い通り、西へ吹く風に乗って移動を始めた。そこから高度を一気に下げて、東へ吹く風に乗ればターゲットへ戻ってくるはずだ。

 焦る想いとは裏腹に、その日の空はどこまでも澄んで、いつもより穏やかだった。ジリジリと照りつける陽射しと、重なり合う蝉の声が、やけに熱く、煩く聞こえた。

 大丈夫、きっと大丈夫。けれど、そう祈る瞬間は、ほんの少し遅かったのかもしれない。

『ちょっと難しいかもしれない』

 レシーバーから聞こえたのは、いつになく弱気な笠原さんの声だった。

 西の風に乗り、高度を下げて東の風を確実に捉え、部の熱気球は再び高校のグラウンドへと戻ってきたものの、ターゲットの印から南へ50メートルも流されてしまっていた。

最後の最後まで、笠原さんは諦(あきら)めずに粘っていたけれど、再び上昇して、ターゲットへ戻る風を見つけるのは難しいと判断したらしい。結局、ターゲットから100メートル離れた先に着陸。マーカーを投げることもできず、その年の大会は記録なしという結果に終わってしまった。


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